今回は、窪美澄さんの「たおやかに輪をえがいて」を読んだので、書評しておこうと思います。
著者経歴
1965(昭和40)年、東京生まれ。2009(平成21)年「ミクマリ」で女による女のためのR-18文学賞大賞を受賞。受賞作を収録した『ふがいない僕は空を見た』が、本の雑誌が選ぶ2010年度ベスト10第1位、2011年本屋大賞第2位に選ばれる。また同年、同書で山本周五郎賞を受賞。2012年、第二作『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞を受賞。2019(令和元)年、『トリニティ』で織田作之助賞を受賞。その他の著作に『アニバーサリー』『よるのふくらみ』『水やりはいつも深夜だけど』『やめるときも、すこやかなるときも』『じっと手を見る』『私は女になりたい』『朔が満ちる』などがある。
感想
「さよなら、ニルヴァーナ」
を買うか、
こっちの「たおやかに輪をえがいて」
を買うか、迷った末に、こっちを選んだわけだが、
こっちを選んで良かったなと思う。
むこうの「さよなら、ニルヴァーナ」
は解説を佐藤優氏が書いていて、
おお、佐藤優氏が解説を書くなんて、よほど良い小説に違いない!
って思ったから買おうか迷ったわけで、
こっちの「たおやかに輪をえがいて」
は文庫本の後ろに書いてあるあらすじ的なやつを読んで、
面白そうって思ったから買おうか迷ったわけで、
そういう迷いなら、
あらかた、あらすじを読んで面白そうな方が当たりな可能性は高いはずなわけで。
どうやら去年直木賞を取ったらしい。
知らなかったのだけれど、人気だったみたい。
そもそも中公文庫自体があまり買わないから、
ニッチな作品のつもりで買った。
直木賞って、直木三十五賞って名前なのだけれど、
それについて正確に知っている人は全国民の半分もいないのではないか。
そもそも、芥川は、「蜘蛛の糸」くらいは読んだことがあるとして、
直木三十五は、どんな作品があるのかもよく知らないし、
作品自体をあまり書店で見かけない。
そんなことは、まあどうでもいい余談で、
本題に入っていこう。
序盤の描写力がすごい
序盤は、とにかく描写、描写、描写で、
登場人物が全然登場しない。
そういう作品は、
序盤で飽きて読めなくなるのが関の山なのだけれど、
この作品は、そういう飽きのようなものがなくて、
描写だけなのに、引き込まれるものがあった。
描写が本当に細かい。
何となく立体的に浮かび上がっていくような人物像で、
ガチで現実に存在していそうで、
そういうリアルさ、がこの小説を面白いものにしているのだと思った。
中盤以降は家族関係について考えさせられた
うちの親も、この小説に登場するような親で、
普通にまっとうに夫婦生活を営んでいる両親である。
母親はあまりメイクをしなくて、
父親は仕事に打ち込んでばかりいる。
姉はそれなりに働いてはいるようだが、自立はしていない。
僕は割に優秀で、割に良い大学に通っている子どもだ。
割に真面目で割に反逆的な子ども。
この小説にはいろんな家族の形が登場するわけだが、
日本のかつて中流階級と呼ばれたまっとうな家庭は、
もう絶滅危惧種なのかもしれない。
令和元年の人口動態統計で明らかにされている日本の離婚率は 1.69で、前年の平成30年の1.68 よりわずかに上昇しています。
離婚率1.00の場合、離婚率1パーセントということではないので、100組中1組が離婚しているという意味ではなく、人口1000人あたり1組が離婚しているということになります。
なんか離婚率について調べてみたのだけれど、
よくわからん指標になっていて、よくわからん。
人口1000人に対して、っていうのが一番意味不明で、
人口1000人の中には老人も含まれれば、
現役世代も含まれ、子どもも幼稚園に通うような幼児でさえ含まれるのだから、
統計のデータとしてマジで無意味な気がしてしまう。
っていう理系的ツッコミはおいておきましょう。
まあとりあえず、離婚する人は日本においても増えているわけで、
普通の家庭っていうとわかりにくいし、
普通の基準って何だよ。って思われるだろうから、
普通を定義しておいてあげると、
年収600万から800万の父と、
パートで働きつつ専業主婦の母と、
ある程度の学力があり、成績は割と優秀で、
割と偏差値的にいい大学に通える子どもが二人いる。
これを普通と定義したときに、
これに当てはまる家庭なんて、僕は今まであまり見たことがない。
普通よりも上である家庭ならいくつか心当たりがあるが、
ドンピシャで普通の家庭を見たことがない。
そんなことを普通と定義しているのがそもそも異常なのは、
おいておき、いや、おれは普通を定義するためにこんなに文章を書き連ねているのではない。
感想を書くために文章を書き連ねているのだ。
本題に戻ろう。
普通が定義されたとして、
普通に、真面目に、まっとうに、
家庭が保たれ続けるのはマジで難しいことなのではないだろうか。
僕の家族が、家族崩壊せずに、形を保ち続けられているのは奇跡に近い。
いや、奇跡そのものか。
僕は未だに、両親が夫婦であり続けていることが謎すぎるし、
夫婦って謎な関係性だな、といつも思う。
結婚って謎なシステムだなと本気で思っているし、
愛が持続するという理想を制度化して正当化して、
それで幸せに暮らせていた世代が存在することが一番の謎だなと思う。
家族関係ってマジで謎。
謎すぎるよね。って思う。
「毎日、この人だれ?」って思うくらいの鮮度を夫婦で保つのは可能だろうか?
この小説の結末部分を読んだら、
誰しも、見出しにあるようなことを考えてしまうのではないか。
僕は少なくとも考えてしまったし、
それが理想的な関係だと思うのは僕の偏見だろうか。
夫婦が生活していると、夫婦ではなく家族になって、
家族になると、お互いが男と女ではなく、
ただの家族としての一員に成り下がってしまうような気がするのは、
この小説でも描かれているところである。
家族に成り下がってしまうと、それはいて当たり前の空気のような、白米のようなものになってしまって、味気ないものになってしまう。
人は何歳になっても鮮度を保ち続けないと、
面白い人生を歩むことはできないし、
何かを諦めることが老いなんだと僕は思っている。
だから、夫婦が老いるときっていうのは、
お互いに対して諦めたときであって、
諦めるっていうことが積み重なると、
夫婦っていうのは家族に成り下がっていくんだと思うわけで。
何かを諦めずに挑戦していく姿勢が
青春そのもので、
岡本太郎が再三叫び続けていたようなことではなかったか。
だから、僕がもし誰かと夫婦になるのだとしたら、
お互いが、「毎日、あなたはだれ?」
って思えるくらいの新鮮な毎日を過ごしたいなと思ってしまう。
でも、それを相手に強要することはできなくて、
僕は一生結婚することはないのかもしれないなと、
少しさみしいような気分になった。