今年は年賀状を1枚だけかいた。
一人の友人に向けて書いた。
1枚だけ年賀状を書いたわけだけれど、
1枚だけの年賀状なら、どれだけでもオリジナリティを生み出せる。
僕の記憶では、小学生のときや、中学生のときには、
父親に頼み込んで、好みのイラストを選び、数枚印刷してもらっていた。
そのように作る年賀状は、オリジナリティのかけらもなかったと思う。
せいぜい、挨拶程度に書く文章にオリジナリティが出るくらいのもので、
独創性という本来の意味のオリジナリティは全くなかった。
それに比べて、今は、オリジナリティを発揮させた年賀状がかけるようになった。
なぜなら、そもそも父親に頼み込めないし、
年賀状のイラストがまとまっているツールのようなソフトやらPDFやらをダンロードする気がないからだ。
今年の年賀状はどんなものになったか、
それは、今はかけない。
その一人の友人がこれを見ているかもしれないからだ。
その一人の友人も、オリジナリティの塊のような年賀状を毎年送りつけてくる。
彼に対抗しようとすればするほど、
僕も1枚の年賀状に対して、
躍起になってしまうわけだが、、、
まあそれはいいことだと思われる。
手仕事の日本
っていう、
柳の本を読んでいる。
もともと、年賀状も手仕事によって生み出されてきたはずだ。
大量生産された機械的なものではなく、
一人の人間が知恵を絞って、どうにかこうにか面白く書けないだろうか?
という思考を張り巡らせて作られていたはずだ。
僕は年賀状が少なくなって良かったと思う。
たくさん書こうとするから、
大量生産が必要になるわけだし、
年賀状の本来性を失わせることになっていたわけだから。
自分にとって、大切な人のために、知恵を絞り、ひらめきを生み出して、
どうにかこうにか面白い年賀状を1枚だけ作りだす、
これって、どうにも民藝って感じがして、すごく心地が良い。
そんなことを思うのでした。