ZAKIOLOGY

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「すずめの戸締まり」を見たので、感想を書いておく! ※ネタバレあり

今日、すずめの戸締まり、見てきました!

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映画『すずめの戸締まり』公式サイト

めちゃくちゃ面白くて、何回か泣きました笑

今回は、見てきた感想を率直に書いていこうと思います!

最後まで読んでいただけると、普通とは違った角度からすずめの戸締まりを読み解けると思います!

 

ネタバレ含むので、嫌な方は先に見てから読んでいただけると幸いです。

 

※以下ネタバレ注意!!!!!

 

大切にされなかった記憶を鎮魂する

すずめの戸締まりのテーマとして、

自分の嫌な記憶と向き合うことです。

人は誰しも生きていたら嫌なことに遭います。

 

鈴芽の場合は、それが東日本大震災で、

日記帳を黒塗りにしているのがめちゃくちゃ印象的でした。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)のようなものだと思います。

 

たとえ東日本大震災で被災していなくても、誰にでも傷ついた過去は存在するのではないでしょうか。

 

鈴芽が日本各地を回る中で、

いろんな人に出会っていくのですが、

出会う人たちそれぞれが傷ついた過去を持っているのではないかと僕は思いました。

 

愛媛で出会う女子高生は、

田舎で同じ世代の友達ができない。という傷ついた過去を持っていて、

神戸に向かうときに出会ったスナックのママさんは、

離婚を経験しているであろう人で、

その子どもたちは、

母親が働いている間は誰かに預けられていて、

母親に甘えたくても甘えられないという心の傷を抱えているようでした。

 

東京で出会う、宗像そうたの友達も、

どこか満たされない何かを抱いているような風貌。

 

このように、鈴芽が出会っていく人たちも、それぞれがそれぞれに傷を負っていて、

 

その人たちは鈴芽を助けてくれるわけですが、

鈴芽が日本各地の後ろ戸を戸締まりすることで、その人たちの心の傷も癒やしていたのではないかと思いました。

 

そして、鈴芽自身の傷ついた過去も最後は自分で鎮魂していました。

鎮魂っていうと大げさで、何か大きなことをしなければならないかのような印象を受けてしまいますが、

 

鈴芽がしたのは単純で、

傷ついた自分を抱きしめてあげて、

その過去があるからこそ、

今があると伝えていたのでした。

そして、ちゃんと明るい未来がある!

って伝えていたのでした。

 

傷ついた心は抱きしめてもらいたいだけなのではないかと思うのです。

僕たちは日々生きる中で、どうしても傷ついた心に蓋をしながら生きてしまいます。

でも、それは一時的な要石(かなめいし)に過ぎなくて、ある閾値(いきち)を超えたら、火山が噴火するかのごとく爆発してしまいます。

 

僕たちは傷ついた心にちゃんと光を当てて、

抱きしめてあげることが必要なのかもしれません。

 

最澄の言葉に、

一隅を照らす

という言葉がありますが、

自分の心の一隅を照らす

(見たくない自分の心の傷にスポットライトを当てる)

というのが、鎮魂に繋がるのかもしれません。

 

それはダイジンにも同じで、

ダイジンは実は鈴芽を導いてくれていたわけですが、

ダイジンも傷ついて弱ってしまうシーンがありました。

ダイジンのような神様の使いのような霊的な動物も大事にされないことで傷ついてしまうのかもしれません。

そして、ダイジンは鈴芽が

ありがとう!と言ったときに、

一気に回復するのですが、

そういう霊的な動物もただ認めてほしい、

本来の自分たちの働きに気づいてほしいだけなのかもしれません。

 

そして、霊的な動物たち、そして神様たちも今の時代、弱ってしまっているのかもしれません。

日本各地で、神社から祈りがなくなり、地方に人がいなくなってしまっています。

 

産土の神(うぶすなのかみ)というその土地ごとの神様たちは傷ついているのかもしれません。

神様は人間の祈りによってその威を増し、神様はその徳によって人間に運を添えてくださいます。

 

宗像そうたが行っていたのは、人間が借りていた土地を産土の神に返すという祈りなのだと思います。

 

そりゃ、人間の都合で勝手に借りていた土地を勝手に人間が放置したら、

その土地の神様は傷ついてしまうのではないでしょうか。

 

 

 

神様は自己犠牲を求めていない

宗像そうたは、自己犠牲で、後戸を戸締まりしていました。

自分一人がやればいいことなのだと思って活動していて、

鈴芽に出会うまで、その家業を自分一人でやらなければならないという、苦しみの中にいました。

 

彼自身も鈴芽に鎮魂された一人なのかもしれませんね。

 

ダイジンが宗像そうたに、

まだわからないのか、

みたいなことを言っているシーンがあるのですが、

 

そんな自己犠牲的なやり方での戸締まりを神様たちは求めていないのだよ。

 

という意味なのではないかと僕は受け取りました。

 

最近、比叡山のお坊さんが書いた本を読んだのですが、

 

 

千日回峰行という過酷な修行の中で、

まず行うのは、自利行(じりぎょう)というものだそうです。

まず、自分が悟ることを目的として、

利他とか他人のためとか、

そういうことは置いておいて、

自分のために修行をするそうです。

 

その自利行を満行してからはじめて、

化他行(けたぎょう)というみんなのための修行を行えるようになるのだそうです。

 

これは、宗像そうたにも当てはまるのではないか、と、思いました。

 

最後のシーンで、

宗像そうたは、自分は死にたくない、

生はかりそめだとはわかっている。

でも、永らえたいのだ!

という本音の願いを先に唱えます。

 

それは、まさに自利。

自分にしか利益がないように思えます。

でも、それが大きいミミズを鎮めることに繋がっていて、結果的にはめちゃくちゃ利他的なことでした。

 

この話から言えるのは、

誰か一人だけが重荷を背負って、

自己犠牲で世界を救うことを神様たちは望んでいない!

ということなのではないでしょうか。

挨拶は祝詞のようなもの

最後のシーンで、めちゃくちゃ挨拶がされるシーンがありましたが、

挨拶って祝詞(のりと)みたいだなーと僕は思いました。

 

祝詞というと、天津祝詞(あまつのりと)や大祓詞(おおはらえのりと)など、神様に通じるための特別な言葉を指します。

 

しかし、元々は同じ日本語で、

日々誰かを見送る何気ない挨拶、

職場や研究室で出会う仲間への何でもない挨拶は、

それ自体が祝詞になり得るのではないか、と思ったのです。

 

すずめの戸締まりでは、

日本各地で、人がいなくなってしまった場所に後戸ができていましたが、

それは人の心でも同じで、

挨拶がなくなっていって、人の心に交流が生まれず、心から人がいなくなってしまうと、心に後戸ができてしまうのかもしれません。

 

効率性ばかりを追い求め、

無駄をとことん排除してしまう現代人の心には、

後戸ができやすい環境が整ってしまっているのではないでしょうか。

 

だからこそ、挨拶という祝詞で日々、人の心を禊祓(みそぎはらえ)をしていったほうが良いのではないでしょうか。

 

そうやって効率性の対局にあるような、

日本人的な文化にこそ、

大事なものは宿っていて、

新海誠監督の作品には日本的な美しさをとても感じます。

 

最後のシーンにはそのようなメッセージ性を感じずにはいられませんでした!

 

ということで、みなさまは「すずめの戸締まり」で何を感じましたか?

面白かった!だけで終わらせずに、何か言葉にしてみるのも面白いかもしれません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

僕はこれから挨拶を頑張ります!笑

では!