ZAKIOLOGY

学ぶ楽しさを探求する

共有する時間の密度≒人間関係の深さ

人間関係において、共有する時間の長さは、

その深さへかなりの影響力を持っている気がする。

当たり前といえばあまり前のことなのだけれど、

ここ最近気付かされたことなのである。

 

一人〇〇ができるようになって、

自分で使えるお金の量が高校生のときよりは増えて、

できることが増えると、

そんなに人間関係が必要ではなくなる。

特に現代社会においては、趣味は共有すべきものではなく、一人で行いたいものに変わりつつあるように思う。

 

ネットフリックスは一人で見たい人は多いだろうし、一人でできる趣味は増えているのではないだろうか。

 

しかしながら、人間というものの本性上、

人間関係がないと辛いと思いがちということもある。

全く無くて良いという人間もいるにはいるが、

そういう人にも多少なりとも人間関係はある。

 

人間関係において、どういう状態が幸せなのかというと、互いに深く理解し、互いに尊敬の念を持っている状態な気がする。

 

浅い理解で、偏見や先入観があって、

互いに尊敬してもいない状態というのは、

あまり幸せな人間関係とは言えないと思う。

 

浅く広く、深く狭くという議論があるが、

割とナンセンスなのではないだろうか。

 

たしかに時間のリソースを考えたら、

その体積的なものは、一定で、

それを分割していく作業が人間関係なのだと考えると、

浅く広く、深く狭くという考えになるのも理解できるが、

そもそも時間とは体積的なものなのだろうか。

 

時間は体積的なものなのではなく、

ものすごく主観的な要素を含んだ揺らぎのあるものではないのか。

 

ものすごく濃い時間、薄い時間というものが誰にでも感じることがあると思う。

 

例えば、とても感動的な映画を見ているとき、

その時間はダラダラネットサーフィンしている時間と比べて、密度は全く異なるはずだ。

 

人間関係と時間というものが相関しているのならば、密度もその中に入れてみたほうが良いのではないか。

 

密度の感性は、人によって異なる部分もあるだろう。

自分が100の密度を感じる時間は、

他人にとっての1の密度しか感じない時間にもなり得る。

 

だから密度も考慮に入れると、価値観というのも重要になってくる。

 

だから、人間関係において幸せな状態を作るには、

同じような価値観と、感性を持ち、

密度の高い時間を共有すること。

が大事なのではないか。

 

 

そう思った!

 

以上。