ZAKIOLOGY

学ぶ楽しさを探求する

最初の方は頑張れるけど、だんだん疲れて頑張れなくなるなら、最初から頑張らないほうが良いのか?

今回の内容はタイトルにある通り。

最初の方は頑張れるけど、だんだん疲れてきて、頑張れなくなるのなら、最初から頑張らないほうが良いのか?

ということについて。

長ったらしいけど、ふと書いてみたくなったので、申し訳ない。

 

言いたいことはわかっていただける方も多いと思う。

僕は正直に言って、いい加減な性格をしている。

忘れ物は多いし、なにかやらかすことも多い。

どちらかというと失敗の多い人生を歩んできたと思う。

 

初めて会う人とか、

関わり始めて間もない人には、

なるべく意識的にそういう欠点は出さないようにしている。

 

やっぱり鎧を着てしまう(外面を取り繕うことの形容)し、

別にそれ自体が悪いとも思ってない。

誰だって大なり小なり外面は良くするものだし、

外面を取り繕わなければ、僕は非常識な人間として扱われてしまうだろう。

非常識な人間として扱われてしまうということは、人との関係性が育まれにくいことを意味するし、

それによって伴ってくる負の部分を考えると、どうしても鎧は必要なものだと思えてくる。

 

でも、完璧なわけはない。

鎧にも隙間はあるし、

鋭い矢で突き刺されたら、

木っ端微塵になってしまうわけだ。

 

それほど脆い鎧なのである。炭素のような不純物がたくさん混じった紛い物の金属なのである。

たぶんタフな人というのは、

この鎧を精錬して、鍛え上げた人なのかもしれない。

まさに鋼鉄のような鎧を持ってる人もいるかもしれない。

僕は未熟者だから、そんなことできていないし、今後も中途半端な鎧を身に着け続けることになりそうだ。

 

理想論ではあるけれど、

最初っから鎧を身に着けなくても良い関係性がほしいなと思ってしまう。

でも、それは怖さもある。

なぜなら、鎧を着ないということはもしかすると、生身の体をナイフで突き刺される可能性もあるからだ。

そんな傷を負ってもいい!と思えるほど僕は強くない。

たぶん、今まで子供の頃からの経験で、ナイフで突き刺されるくらい痛い目を見たのだと思う。

 

トラウマは存在しない!ってアドラー心理学では唱えているけれど、そういう幼少期からの痛みのような経験はたしかに存在してるっぽい。

 

その痛みに対する恐怖心はなかなか払拭できないし、だからこそ、その恐怖心を越えるべきときはいつか来るのだと思う。

最近思うのは、そのときがそろそろ来ているかもしれないということだ。

そろそろ鎧を脱ぎ捨てて、生身の体で傷を負う勇気を持たなければならない気がする。

 

僕は最初の方は頑張って鎧を着て、なんとか頑張るが、割とすぐにガス欠に陥る。

キャパは小さい。体力ない。すぐ瀕死。いつもポケモンセンターにダッシュしている。

現実にはポケモンセンターのような回復施設はないけれど、僕にとっては、神社がそういう役割のような場所になっている。

(もちろんポケモンセンターのようなメロディですぐ回復できるわけではない)

 

いつもガス欠になってから、

最初っから頑張らんくて良かったんちゃう?

という疑問と向き合うことになり、

でもやっぱり鎧は着たいよね。。

という結論に着地している。

 

みなさんは、最初っから頑張らないでもなんとかなるのでしょうか?

僕は最初は無意識的に頑張ってしまいます。

頑張らなくても良いよ!ミスしても良いよ!

全部受け入れてあげるよ!みたいな聖母マリアみたいな人はなかなか現実にはいないのではないか。

そう思ってしまう。

 

でもやっぱり、頑張り続けるのは無理があるよねーーー。

どうしたらええんやろか。

結論はまた10年後!