今日は、たまたま予定が合ったため、友人と京都にて遊んだ。
僕はご存じのとおり、神戸在住のため、なかなか京都には近いのだけれど、
それでも、京都に頻繁に通えるわけではない。
京都に行くのなら、阪急で行くべきである。圧倒的に。
阪急なら500円くらいで行ける。
往復1000円は魅力的でしかない。
そんで、友達と会ったのだが、
やはり、友達と遊ぶのは楽しい。
僕は常々思っているが、友達と無意味なことを共有すべきだ。今日は絵本について語った。
友達と無意味で無駄で生産性のかけらもない時間と空間を共有する。
すると、なんらかの一体感が生まれるのだ。
これをおそらくは絆と呼ぶのだろう。
国語の授業って一見するとムダだと思う。
けれど、無駄こそが無駄でないのであって、無駄に見えるものは無駄ではないのである。
無駄なことを一人でするのは寂しく虚しい。
けれど、無駄なことを友達とするのは楽しく嬉しい。
無駄なことをどれだけ共有することができたのか、これが信頼関係にもつながるのではないか。
信頼関係というものは、一朝一夕で作り上げられるものではない。
必ず、まどろっこしく、かつ、めんどくさいことを踏まえなければならない。
人間関係に正解はない。
けれど、一つ言えるのは、
無駄なことを共有することを諦めてはいけないのである。
大人になればなるほど、無駄なことをしなくなる。省エネになって、固定化していく。
無駄なことをするにはエネルギーがいる。
だから若さを保つためにも、変化するためにも、無駄なことをたくさんやるべきだ。
僕は性格柄、無駄なことを避けがちである。
なんでもかんでも効率的に素早く省エネでやり過ごそうとしてしまう。
でも、それではいけないのだ。
たしかに、効率的に省エネで物事を済ませられれば楽で良い。
けれど、それは仕事やビジネスだけでよい。
いや、仕事やビジネスでも無駄な余白は大切だ。
日常生活そのものに無駄なことがなければオモシロミがない。
人間生活を楽しむには無駄をとことんやり尽くすこと。
そして、それを誰かと共有するのが人間らしさなのだと僕は思う。