ZAKIOLOGY

学ぶ楽しさを探求する

心理的な問題の解決策 言い訳せずに行動する

最近HSP関連の本や、回避性愛着障害についての本を読んだ。

 

 

これらの本によると、

結局のところ、心理的な問題を解決するには、

言い訳できない環境に身を置くことだ。

ということ。

 

回避性愛着障害の中では、

ドトールを1代で築き上げた鳥羽博道氏の例を挙げて、

克服するための方法が書かれているが、

症状を治そうとするのではなく、

やらねばならないこと、やっていることに集中することが大事である

と述べている。

つまりは、

何かの心理的な問題やストレス、回避性や過敏さと向き合うには、

行動が必要不可欠である

という単純明快、至極全う、当たり前すぎて盲点になりがちなことである。

 

回避性と過敏性は相関関係があると思う。

本書のなかに書かれいてるかもしれないが、

覚えていないので、これはオピニオンとして軽く考えてもらいたい。

 

回避性と過敏性というのは、

同時に発生すると僕は思う。

なぜなら、過敏だから、人と関わるのがめんどくさい

ということにもなるし、

人と関わらないから、人間関係が希薄になり、

結果として狭い人間関係になる。

すると、狭い人間関係の中に生きていると、

相手の欠点、短所がより見えるようになる。

すると、過敏性が増す。

ということもあるかもしれないと思うからだ。

 

僕は回避性がかなり強いと思う。

基本的にめんどくさいことは嫌いで、

最近はかなり人間関係が希薄になっている。

これはコロナで助長された面もあるが、

単に、深い人間関係を築くのがめんどくさい。

ということも関係していると思われる。

深い人間関係を築くためには、

僕の今までの歴史や背景や思想まで語らないと無理なのだ。

割とこだわりの強い人生を歩んでいるので、

他人にわかってもらいたいという意識もなく、

他人には受け入れてもらえないのである。

 

単にそれを受け入れることができない人に何を説明しても無駄だと思っているだけだ。

僕はワクチンを打つべきではない。

コロナは茶番だ。

と言い続けているし、

それは完全に正しいと思っているので、

反論など期待していないし、

反論されたらいつでも絶縁する準備はできている。

食事に関しても、

良い水、良い塩、良い油をとることはもちろん、

ちまたに出回る食品添加物まみれの食品はなるべく避ける。

こんなことをやっている大学生は他に見たことがないし、

価値観が異なるのだから一緒にいても疲れるだけなのだ。

いちいち説明するのがめんどくさい。

そのめんどくささを相手は受け入れる準備ができていないのにも関わらず、

興味本位で僕の生き方に口出しをしてきたりする人がいる。

こういう人たちが多いから、人間関係を築くのはめんどくさいのだ。

思想を共有できない人と仲良くなるのは無理。僕は諦めた。

話を最後まで聞かない人とも仲良くなるのは無理。僕は諦めた。

 

この本の中で回避性を克服するための方法論として、

同好の集まりに参加することがあげられているが、

僕が中学や高校で人間関係をうまく築けていた一因が部活であったと思う。

 

僕はめんどくさいことが嫌いな性格であるため

毎日同じように同じ時間を共有しない限り、仲良くなることが難しいのではないかと思う。

そもそも毎日同じように同じ時間を共有するのもめんどくさいが、

同じ時間を共有するのが少し長くなると、

逆に、関係を破綻させてこじらせる方がめんどくさい、

に転じることになる。

 

回避性に対しての対抗手段として有効なのはこういうことだと思う。

関わりまくって、逆に関係をもたない方がめんどくさい。

という状況に自分を追い込むということだ。

追い込むというより、そういう状況になるように仕向けるというべきか。

 

いずれにせよ、自分をうまく操縦することが大事だということ。

 

回避性の強い人はネットに逃げがち。

これも自分をうまくコントロールできていないから。

自分をうまくコントロールすれば、何かしらの問題解決につながるのではないか。

 

人とのつながりには煩わしさが伴う。人と関係をきちんともとうとすると、自分が何者であるかを明らかにせねばならないし、責任や失敗のリスクも生まれる。そんな面倒を素通りして、つながりをもたずに暮らすことは、気楽で、安全な生き方に思えるかもしれない。

だが、どこにも根を生やさず、何事にも本気を出さず、責任もリスクも回避して生きることほど、空虚な生き方はない。なぜなら、それは生きることを放棄するのと同じことだからである。

回避性愛着障害 p.285より

 

この文章の通りだ。

 

結局は、その煩わしさ、めんどくささを引き受けて生きていく。

というか、そもそもめんどくさいなら死ぬのが一番早い。

めんどくさいの言い訳の論理の先には死しかない。

生きるのはそもそもめんどくさいことなのだ。

 

生きることはめんどくさい。

だから、めんどくさいことを共有して助け合って生きていこう。

時には煩わしいし、

なんでお前の自慢話を聞かないといけないんだ!

と怒りたくなることもあるだろう。

もしくは、お前の愚痴なんか興味ない!

とすぐさま酒の席から離れたくなることもあるだろう。

それでも、人間とつきあって生きていくということは、

それらのめんどくささとともにある。

どれだけ頑張ってもめんどくさい人間なんていない。

人間はすべてめんどくさい。

人間はめんどくさい生き物だから、手を取り合って生きるように設計されている。

それに反逆するのはロボットの役目であり、僕らのやることではない。

合理的に生きることを放棄しなければならない。

 

不合理に生きる。

それが人間らしい生き方ということなのではないだろうか。

 

僕の場合は特殊であり、自分の軸がハッキリしすぎているため

社会一般の常識とは違う。

必要悪というか、僕みたいな生き方をしていたら、

それは孤独になっても仕方がない。

人間関係が狭いのも当たり前だ。改善する余地がない。

僕はいつでも知識や知恵、思想を差し出す準備はしておくが、

他人には期待していない。

聞く耳を持たない愚民に何を言っても無駄なのでね。

これも回避性だと言われるのなら、それはそれで仕方がない。

誰か思想を共有できる人と出会えることを祈るのみだw