世の中ソフィストに溢れかえっている。
だいたいの人は詭弁家だし、僕もソフィスト的になっているときはある。
ソフィストにNOを突きつけた人物といえばソクラテス。
相対主義にNOを突きつけたのもソクラテス。
ソフィストはだいたいにおいて相対主義。
自分の領域を荒らされたくない。
自分は自分、他人は他人。
そうやって割り切って線引きするのが相対主義。
相対主義の何がいけないの?
と思うこともある。
他人に踏み込まれなくない領域は僕にもあるし、
相対主義でなければやってられないこともたくさんある。
しかし、相対主義は冷たいなとも思う。
相対主義は人の心に分離感をもたらす。
結局はこの分離感こそ人間の分断。
本当は一体感を持ちたいけれど踏み出せない。
本当は安心感がほしいけど一線を超えられない。
相対主義を突き詰めると、こうした問題にぶつかることになる。
最近、回避性愛着障害という本を読んでいるが、
無難に、そつなく、問題を起こさず、争いを起こさず、というスタンスが回避性である。
こういうスタンスで何が問題なのか、
絆が希薄になるのだ。
絆が希薄になるということは、他人との人間関係をうまく育めない。
佐藤優氏と斉藤環氏の共著の本にも書かれていた。
人と対面で会うことは暴力性を伴う。
この暴力性があるから人間は人に会いたいと思うし、逆にリモートが楽だと感じるのだと。
なるほどと思った。
人と会うことは、自分の領域を侵す行為だ。
パーソナルスペース?みたいな領域を侵すのもそうだが、思想的な領域も侵すことになる。
HSPな人とそうでない人では常識や価値観が異なるが、その自分が常識とする思想を相手に突きつけることになるのが、人に対面で会うことだ。
自分はこう思う、自分はこういう価値観のもとで生きている。
自然とそういうものを相手に突きつける。
回避性な人は、一見すると「いい人」だ。
誰も傷つけず、誰も不快にさせないようにする。
だから、自分を主張しない。
相対主義的にすべての人を受け入れているようで拒絶している。
ジェイソンに拷問される前の金木みたいな。
いや、俺はそれは違うと思う。
そういう反論こそが自分の主張なのではないのか。
ジェイソンは選べ!と金木に強要する。
選ぶことは言い換えると捨てること。
捨てる強さがないと悪に勝てない。
そんなことはアルミンだって知ってる。
相対主義的にそういう意見もあるよねー。
で終わらせるのではなく、
そういう意見があるのはわかる。だがしかし、それは違うと思う。
とNOを突きつけるのだ。
回避性愛着障害の人は、
人生のあらゆる場面で挑戦をさけるようになってしまう。
こういった問題が最近は増えてきているらしい。
これも結局は相対主義的なものだ。
自分の領域を壊すのが怖いから、そういうことになる。
結局は自分の領域を取り払っていくことが大切なのではないか。
そう思う。