ZAKIOLOGY

学ぶ楽しさを探求する

自分を演じるか否か

自分を演じるか否かという問題について少し考察を深めてみたい。

最近読んだ本で、この二項対立があったので、

少し取り上げてみる。

まずは、加藤諦三さんの「自分の構造」

この本では、かっこいい自分を演じるな!という主張を展開している。

つまり、かっこいい自分を演じるということは、そもそも、今の自分を受け入れていないのだと。

今の自分をしっかりと受け入れていて、自我の基盤がしっかりしているのなら、

そもそもかっこいい自分を他人に演じることはないだろう

ということだ。

 

逆に、村上春樹さんの「女のいない男たち」の中の「ドライブ・マイ・カー」では、

人間にはどうしようもない病のようなものがある。

例えば妻の浮気とか、DVとか、もしくは大切な人の死とか、

そういう類の自分ではどうしようもない他人の癖のようなもの、自分にはどうしようもない現象に対して、

どこか諦めて、受け入れいて、自分を演じるかのように、生きていかなくてはならない。

そういう趣旨のことを言っている。

 

この2つの意見は、どちらも正しいように思える。

どっちだけが正しくて、どっちだけが間違っているとは言えないように思うのだ。

 

自分を演じるということは、一見悪いことのように感じる。

なぜなら、本来の自分を隠蔽しているということになるから。

しかし、自分にはどうしようもない、けれど、無視することもできないような重大なものに向き合うとき、

人は何かしら自分をフェイク・イット(偽装)して切り抜けなければならないときもあるとも思う。

 

普段から、自分を演じる必要はないかもしれない。

それは、例えば、普段の何気ない日常で、友達と付き合っていくときに、

わざわざ本来の自分を隠蔽してしまう必要はないはずだ。

ある意味、その友達にも失礼な行為でもある。

本来の自分を見せると、関係が悪くなるのではないか?

という疑念がそこには潜んでいるからだ。

たいていの場合、自分が隠そうとする”自分にとって”重大なことは、

他人にとっては取るに足りないことである。

 

思い切って自己開示してみたら、あっさり受け入れてくれた。とか

今まで抱えていた悩みがまるで何事もなかったかのように軽く受け止めてくれた。とか

そういうことは珍しいことではないのだと僕は思う。

 

こういう観点から見たときには、自分を演じるという行為がいかに良くないかがわかると思う。

 

結局のところ、目的の違いによるものなのかもしれない。

自分を演じない目的は、相手との信頼関係を築くことにある。

本来の自分を見せていくことで、お互いに信頼関係を築けるのだ。

 

では、逆に

自分を演じる目的は、自分ではどうしようもないことを乗り越えることにある。

とすれば、自分を演じることが処世術にもなり得るのかもしれない。

少なからず、困難を乗り越えるために演じると成長できる。

少しの背伸び、少しの我慢、

なにか煮えきらないものを自分の中に抱えて生きる。

それは少なからず辛いことだと思う。

しかし、あるときふと乗り越えることができる、

もしくは、憑きものが落ちたかのようにストンと浄化されるときが訪れる。

これは、時間が解決してくれるものでもある。

いっとき、どうしようもないことは、時間が経てばいろんな解釈ができるようになる。

古事記の神話のように。

あのとき演じて、多少の無理をして乗り切ったからこそ成長できた。

そのおかげで、いただけたご縁があった。

そのように感じられることが人生が進むとあるかもしれない。

 

古事記でもアマテラスの岩戸隠れのときに神々はある意味フェイク・イットした。

アメノウズメは舞いに舞って、周りで見ている神々もそれを盛り上げる。

そしてアマテラスがひょっこり顔を出した瞬間に、タヂカラオが岩戸を開く。

 

これは一つの演技だとも言えないだろうか。

アメノウズメやその他の神々たちが連携して、楽しそうな場を演出して、

アマテラスを引き寄せた。

 

そして、どうしようもないような暗黒の世界を変えていったのだ。

 

今の時代も、コロナだのワクチンだの、自民党だの、高齢化だの、いろいろなどうしようもないことがはびこっている。まさに光の見えない暗黒世界だ。

しかし、そういう自体にこそ、アメノウズメたちのようにフェイク・イットして、

乗り越えていくことが求められているのかもしれない。

新しい天照大神を盛大に迎える準備をしていかなくてはならない。

 

話がそれたが、

絶望の淵に立たされたときには、自分を演じて乗り切る必要があり、

しかし、普段生きていく上で信頼関係を築くためには自分をさらけ出していく必要がある。

というのが僕の今の結論になりそうだ。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

オザキでした。