自由ってなんだろうか。
身体の自由、職業選択の自由、思想の自由、精神の自由
自由の名のつく文言は多くある。
しかし、自由とは本当に自由なのだろうか。
また、本当の自由は、自由なのだろうか。
自由とはそもそも何なのだろうか。
自由と言うと、「何にも縛られず、開放感にみちた感じ」を思い浮かべる。
しかし、何にも縛られず生きてきたことはあるだろうか。
親から生まれてくるときでさえ、自分で自由に選んでいない。
生まれてきてからだってそうだ。
親の持っている思い込みや、社会的な常識は自然と植え付けられる。
社会性を持てば、つまり学校という社会に属するようになると、さらに自由ではなくなる。
否が応でも、他人と接しなければならないし、他人との関わりあいの中では全く無秩序に自由に行動することはできない。
基本的人権は、公共の福祉に制限される。
要は、誰かとのつながりがある社会において、「社会全体の幸福」という条件に基づく自由が認められているに過ぎない。
ロックは彼の政治思想の中で、自然状態にもある程度その秩序を守る自然法が存在していると説いた。
国家も政府も存在しない状態においても、ある程度の社会規範は存在しているのだ。
社会規範のない自由は、逆に自由から遠ざかる。
ホッブズはリバイアサンの中で、自然状態とは、戦争状態のことを指すとした。
戦争状態は果たして自由だと言えるのだろうか。ホッブズは戦争状態こそ、何をやってもいい状態だから自由だとしているが、僕はそうは思わない。
いや、ある見方からは自由なのかもしれないが、果たして幸福な自由ではないだろう。
全く道徳もなく規範もなく、すべてにおいて個人の利益追求のために戦争をしている状態が幸せと言えるのだろうか。
幸福な自由とは、何だろうか。
本来、自由になりたいという場合、自由が幸せだと思っていることが多い。
幸せな自由こそが、本来の自由なのだと思う。
表現の自由を大義名分に平気で人を傷つけるようなことをやっている人もいる。
ネットでは誰かを誹謗中傷する人もいる。
他人を傷つけることをしている人は自由ではない。
他人を批判する人も自由からはほど遠い。
他人に縛られているし、自分の人生を生きていないからだ。
幸福な自由とは、自分の人生を生きることではないだろうか。
人から嫌なことをされても、水に流して、気にしない。忘れる。
自分は自分の人生に集中し、自分のやるべきことを淡々とこなす。
人は、子供の時から、「やってはいけないことはやってはいけないのだ」と理屈抜きにわかっているし、そう育てられるのが普通だ。
人のことを傷つける行為には、違和感を持つようにできている。
一面から見るだけではわからない。
一面だけ見ていたら自由でないように見えても、他の面から見たら自由。みたいなこと。
本物の自由は多面的で多様だ。でも本質はいつも自分の人生を歩んでいること。
僕は、自分の人生に責任を持ち、自分のことを自分で決めて幸福な自由を追求していくつもりだ。