こんにちは。
今回は、剣道家から見る柔道というテーマで書いていこうと思う。
結論から言うと、剣道は柔道のようになってほしくない。
オリンピックや世界大会を見ていて、非常に気持ち悪い感じをうける。
あれは、柔道ではない。
ただの柔術だ。
以前、道と術に関して書いた。
柔道とJUDO
道が術に成り下がる
柔道は柔術に成り下がってしまっている。世界は、柔道をしらないのだ。柔道ではなく、JUDOしか知らない。JUDOは柔道とはかけ離れている。
剣道はそうなってほしくない。剣道は決してKENDOではないのだ。そもそも、なぜ英語にする必要がある?必要ない!剣道は剣道だ。表記も日本語であるべきだ。日本で始まったのだから。日本語で表記し、それに世界が合わせるのが筋だろ。
まず、柔道を理解したいなら、日本語を身につける必要すらある。本物の武士道や武道は日本語でしか学べない。翻訳された時点で、すでにニュアンスの違い、感覚の違いが生じてしまう。
本来、道とは、美しさを追い求める考え方であり、概念だ。
今の柔道は、武道ではない。美しくないのだ。
勝って、ガッツポーズをしたり、笑顔になったり、明らかに、武道の精神性を失っている。見ていて、不快だ。見苦しいにもほどがある。
↑非常に見苦しいが、参考程度に載せておく。
驚くなかれ、それは、日本の選手すら、そうなってしまっている。
柔道の道の精神性の崩壊
武道の精神性を崩壊させている。海外の選手ならまだしも、なぜ、日本の選手までそうなってしまうのか。
海外の選手なら、日本の精神性に追いつけていない愚か者で済まされるが、日本の選手は、最初に礼の基本を教わっているはずだ。
それをないがしろにしてしまっているのが柔道である。柔道家は求道者ではないのか。
ルールもおかしい。柔道を理解していない海外のアホに作り変えられ、ビデオ判定という意味のないシステムまで導入されている。
ビデオ判定?くだらない。選手に公平な判断をするために必要?必要ないだろ。
アホにもほどがある。日本の武道は審判がいるではないか。審判に判断されたなら、それを受け入れてさらに精進するのが日本の精神性である。ビデオで判定する必要などもともとない。
結果に左右されないからだ。結果がどうであれ、自分の成長につなげるという強い意志があるから公平な判断などそもそも必要ない。
日本の武道なのに、海外にけがされている。
演出もおかしい。
なんだ、あれは。コンサートかなにかか?意味のわからない演出をするな。
柔道は武道なのだ。
演出など不要である。粛々と、淡々と試合をしろよ。
厳かに、淡々と、それが武道らしさだ。柔道にはそれがない。
JUDOは、武道ではない。ただのスポーツだ。武道はスポーツとは一線を画す。
武道は精神性あってこそなのだ。
柔道は、それを完全に失ってしまっている。
武道に世界選手権は不要である
一つ明らかに言えることがある。
日本の武道は世界選手権など必要ないということだ。
日本の武道は日本選手権が世界選手権であり、宇宙選手権である。
金のために一番大事な物を失った柔道
日本の伝統が海外に汚染されるのは、甚だ許しがたい。
日本の古来から受け継がれる日本の精神性を守るためにも、日本の武道は、日本でのみやるべきだ。
世界選手権をなぜやるのか。それは、金が動くからでしかない。
世界に拡張することは金になるのかもしれないが、失う物が多すぎる。
一番大事な物まで失ってまで、世界に広げることはないだろうと思う。
同じことを思う人は、少なからずいるみたい。
最後に
日本の精神性を理解するのは海外には無理だと思っている。
明らかに考え方が違いすぎるのだ。
グローバル化を進めるべきところと進めてはいけないところがある。
日本の伝統文化はまさに、グローバル化をしてはいけない分野なのだ。
これを憂い悲しむ日本国民の少なさ。
おいおい。しっかりしろよ。日本人。