ZAKIOLOGY

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【書評】カズオ・イシグロ 「わたしを離さないで」

やっと、読み終えることができたので、

書評を書いておく。

 

 

一応映画化もされているし、綾瀬はるか主演でドラマ化もされている。

 

でも、この小説は、本で読む方が圧倒的に良いと思う。

なぜなら、描写が細かいからである。

この描写を映像で表現することと、文章で表現することは意味が全く異なる。

この描写はなんとしても文章で読むべきだ。

 

村上春樹氏もカズオ・イシグロを愛読しているらしい。

 

村上春樹氏ほどの作家が愛読する小説ってどんなものなんだろう?

と興味をそそられたので、

海外文学はとてつもなく苦手だが、我慢強く読み進めてみた。

 

序盤は、ネタバレを知らなかったため何を言っているのか本当にわからなかった。

普通に苦痛だったし、読み進めることが難しかった。

でも、苦手なりに、苦痛を感じながらも、読み進めていくと、

ある章を転換点として、一気に面白みを増していった。

 

何を言っているのかわからなかった伏線が徐々に回収され始めたのがその章だった。

 

そもそも、これは何の話なのか?

というところがわからないと、序盤は謎そのものだ。

 

よくわからない単語が飛び交う。

ヘールシャムが特別なところだということに違いはない。

それはわかるが、それ以外が何もわからない。

 

なぜ、ヘールシャムが特別な場所なのか、というところが明らかになってから、

この物語は一気に面白くなる。(ほぼ終盤だけれど)

 

そして、終盤は圧巻だった。

第22章、第23章は、すごく感動した。

 

一通り読み終えてから、第1章を読むと、段違いに面白く感じられるのは、

気のせいではないだろう。

 

読む前と読んだ後で、ここまで解釈が異なる小説は初めてだった。

読む前は、ただキャシーが介護人をやめる、というだけの話なのに、

読んだ後では、介護人をやめるというだけの話ではないということがよく伝わってくる。

 

第1章の切実な感じは最終章まで読んでから、はじめて気づくことができる。

 

文章は静謐という言葉のままな感じで、

静謐で、繊細で、ドストエフスキーの描写力と似たものがあると思った。

ドストエフスキーの描写もとてつもなく細かく、緻密だけれど、

カズオ・イシグロの描写もそれに劣らず細かく、緻密だった。

 

今の若い世代、特にショート動画ばかり見ているような人にはとても退屈な小説に思えてしまうのではないだろうか。

早く結論を求めてしまって、読み通すよりも先にネタバレをついつい見てしまうのではないだろうか。

でもこの小説に限って言えば、ネタバレを見てしまうのはもったいない。

ネタバレを見ないで、実直に読み進める我慢強さを持ってほしいと思う。

たしかに我慢は良くない。でも、耐えた先にある圧倒的な感動もあるのだと思う。

 

名作というのは、ある種の苦しさを伴っているものだ。

ある種の苦しさのない薄い物語が時代を経て残るわけがないからだ。

ある種の苦しさがあるからこそ、時代を経ても味わい尽くせない面白さがあるのだろう。

 

この手の小説は、時代を経ても残っていく部類の小説だ。

名作と言って間違いない。

 

 

我慢という名の現状維持から抜け出すためのサイコパス

今我慢しておけば、いつか報われる。

みたいなことを言う大人がいる。

でも、どう考えても、我慢していればいつか報われる、

というのは嘘なのではないか、と思えてしまう。

 

というのも、最近ハマっている「サイコパスダイアリー」

 

https://i.fod.fujitv.co.jp/pc/image/ep/4s20/wbhjfr_4s20_cxbg_001_wm.jpg

という韓国ドラマでは、

優しい主人公が我慢を重ねて生きていたときに、

殺人現場を目撃してしまう。

そこでサイコパスの殺人鬼の日記帳を拾ってしまう。

その直後に主人公は事故にあい、記憶を失う。

記憶を失った主人公は、その日記が自分のものであると思い込み、

我慢をし続ける人生とは真逆の価値観に触れる。

という物語だ。

 

まだ見ている途中なので、結末は知らないが、

たぶん主人公は、優しさと厳しさを兼ね備えた人物に成長するのではないか、と予想している。

人間というのは、優しさだけではダメだ。

ときに厳しくすることができる強さがないといけない。

 

サイコパスというのは、少し極端かもしれないが、

サイコパスの思考回路を優しすぎる人は取り入れることが必要なのかも知れない。

どこか狂気じみた思考を自分の中に取り入れることによって、

優しすぎる自分を守ることができる。

 

物語の中でも、主人公はサイコパスな演技をうまく取り入れて、

他人になめられるのではなく、逆にびびらせることができるようになる。

相手に侮られるのは優しすぎるが故でもあるが、

相手をつけあがらせるのは良くない。

 

相手をつけあがらせるのではなく、

お互いにある程度の緊張状態を保ち、

敬意と尊厳を保った状態でのコミュニケーションが対等なコミュニケーションだと言える。

 

そういう意味でも、我慢し続けるのではなく、

我慢を強いてくるような人物には毅然とした態度をとり、なめられないようにする強さも人生には必要なのかもしれない。

 

無駄なデジタル化にイライラする

最近気になるのが、無駄なデジタル化

DX、DX、DX

と叫ばれているからか、

無駄にデジタル化しているところがある。

 

一番謎なのは、大学の食堂の支払いである。

今までICカードでの決済が使えたり、

クレジットでの決済、現金での決済が可能だった。

ところが、ICカードが廃止になり、

スマホ決済と現金決済のみになってしまった。

本当にバカなのか、と思った。

 

ICカードでの決済で十分機能していたし、

カードでの決済の方が直感的で確実だ。

 

それなのに、カードをわざわざ廃止して、

スマホ決済のみにしてしまうあたり、

本当に頓馬だなと思ってしまった。

 

しかも、無駄なシステムの導入のために、

食堂のおばちゃんたちは大変苦労しているように見える。

 

スマホのバーコードを読み込むための機械は

めちゃくちゃ脆弱で、割と頻繁にバーコードが読み込めないというトラブルが発生していて、

何のためのデジタル化なのか、まったくわからない。

 

日本人は本当にバカだから、無駄なポーズをとりたがる。

デジタル化しているよ。という体をとりたいだけ。

 

ほかにもこの手の無駄なデジタル化はあって、

飲食店において、モバイルオーダーもそれにあたる。

 

モバイルオーダーには必要性がない。

直接店員にオーダーした方が確実だ。

モバイルオーダーにしたところで、

店員がお客さんのところに行くという移動のみが省かれるだけで、

むしろシステムが機能しないときの対応の方が煩わしいに違いない。

 

挙げ句、システムが機能しない場合、

店員が直接オーダーをとることになるわけだ。

だったら、最初からモバイルオーダーなどしない方が効率的では?

 

よほどの大手チェーン店でもない限り、

システムをちゃんと組むことができないし、

そのシステムを導入するほどの価値はないと僕は思う。

 

お客さんの側もそれに適応することを強制されるわけで、

高齢者に対する暴力でしかない。

 

そもそも飲食店にわざわざ出向いているのだから、

デジタル化もクソもないような気がしてしまう。

 

こういう無駄なデジタル化はやめるべきで、

DXという言葉の一人歩き感がいなめない。

卒論を書き終わった!

 

zakiology.com

こんなことを書いたりして、

読者の方々を心配させてしまったかもしれないし、

いや、お前の心配なんて誰もしねーよ、

とツッコミを入れているかたもいるかもしれないが、

兎にも角にも、僕は卒論を書き終えた。

 

ただそれだけの報告で、

ありていに言えばそれ以外に書くことなどない。

 

でも卒論を書き終えると、

途端に、自分は大学を卒業するんだな。

という実感めいたものを感じてしまう。

 

僕はまだアカデミアに残るし、

院生活が始まっていく予定なわけだけれど、

それでも、大学の四年間が幕を下ろそうとしているという実感が、

物理的に訪れてくる。

 

僕の大学(僕の学部)は、

未だに卒論は紙で提出することになっているのだが、

印刷物としての質量のある卒論と、

データとしての質量のない卒論では、

物理的に重みが違うし、

物理的に重みが違うと、

感情的な重みまで違って感じた。

 

本とか、論文とか、

僕は紙でないと内容が頭に残らない。

僕のようなもともとアナログ大好きなアナログ人間には、

質量を持った物質を手垢をつけながら(物理的に)読まないと、

何も残ってはくれないらしい。

 

本当はブログも紙で書いたほうが良いのかもしれない。

でもブログは何を書いても何を書かなくても良いわけで、

頭に残らないという良さがあるのかもしれない。

 

自分の鬱屈した気持ちや感情は、

質量のないテキストにして、

忘れてしまったほうが精神衛生上、健康的だ。

 

体系的な知識や、古典的な知恵みたいな、

抽象度の高い質量のない思想みたいなものは、

逆に紙のような質量のある次元に抽象度を下げてこないと、

理解しにくいという側面もあるのかもしれない。

 

もし、僕の卒論が読みたいなら、

質量のある卒論を住所まで送りつけるサービスをやってもいい。

1万円くらいでどうだろうか?

いや100万円払ってくれたら送料無料で送りつけてしんぜよう。

 

ということで、卒論を書き終えたのでした。

(ということで、の乱用)

【書評】たおやかに輪をえがいて(窪美澄)

今回は、窪美澄さんの「たおやかに輪をえがいて」を読んだので、書評しておこうと思います。


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著者経歴

1965(昭和40)年、東京生まれ。2009(平成21)年「ミクマリ」で女による女のためのR-18文学賞大賞を受賞。受賞作を収録した『ふがいない僕は空を見た』が、本の雑誌が選ぶ2010年度ベスト10第1位、2011年本屋大賞第2位に選ばれる。また同年、同書で山本周五郎賞を受賞。2012年、第二作『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞を受賞。2019(令和元)年、『トリニティ』で織田作之助賞を受賞。その他の著作に『アニバーサリー』『よるのふくらみ』『水やりはいつも深夜だけど』『やめるときも、すこやかなるときも』『じっと手を見る』『私は女になりたい』『朔が満ちる』などがある。

窪美澄 | 著者プロフィール | 新潮社

感想

「さよなら、ニルヴァーナ」

を買うか、

こっちの「たおやかに輪をえがいて」

を買うか、迷った末に、こっちを選んだわけだが、

こっちを選んで良かったなと思う。

 

むこうの「さよなら、ニルヴァーナ」

は解説を佐藤優氏が書いていて、

おお、佐藤優氏が解説を書くなんて、よほど良い小説に違いない!

って思ったから買おうか迷ったわけで、

こっちの「たおやかに輪をえがいて」

は文庫本の後ろに書いてあるあらすじ的なやつを読んで、

面白そうって思ったから買おうか迷ったわけで、

そういう迷いなら、

あらかた、あらすじを読んで面白そうな方が当たりな可能性は高いはずなわけで。

 

どうやら去年直木賞を取ったらしい。

知らなかったのだけれど、人気だったみたい。

そもそも中公文庫自体があまり買わないから、

ニッチな作品のつもりで買った。

直木賞って、直木三十五賞って名前なのだけれど、

それについて正確に知っている人は全国民の半分もいないのではないか。

そもそも、芥川は、「蜘蛛の糸」くらいは読んだことがあるとして、

直木三十五は、どんな作品があるのかもよく知らないし、

作品自体をあまり書店で見かけない。

そんなことは、まあどうでもいい余談で、

本題に入っていこう。

序盤の描写力がすごい

序盤は、とにかく描写、描写、描写で、

登場人物が全然登場しない。

そういう作品は、

序盤で飽きて読めなくなるのが関の山なのだけれど、

この作品は、そういう飽きのようなものがなくて、

描写だけなのに、引き込まれるものがあった。

描写が本当に細かい。

何となく立体的に浮かび上がっていくような人物像で、

ガチで現実に存在していそうで、

そういうリアルさ、がこの小説を面白いものにしているのだと思った。

中盤以降は家族関係について考えさせられた

うちの親も、この小説に登場するような親で、

 

普通にまっとうに夫婦生活を営んでいる両親である。

母親はあまりメイクをしなくて、

父親は仕事に打ち込んでばかりいる。

姉はそれなりに働いてはいるようだが、自立はしていない。

僕は割に優秀で、割に良い大学に通っている子どもだ。

割に真面目で割に反逆的な子ども。

 

この小説にはいろんな家族の形が登場するわけだが、

日本のかつて中流階級と呼ばれたまっとうな家庭は、

もう絶滅危惧種なのかもしれない。

令和元年の人口動態統計で明らかにされている日本の離婚率は 1.69で、前年の平成30年の1.68 よりわずかに上昇しています。

離婚率1.00の場合、離婚率1パーセントということではないので、100組中1組が離婚しているという意味ではなく、人口1000人あたり1組が離婚しているということになります。

日本の離婚率|3組に1組が離婚しているというのは本当? | 離婚弁護士マップ

なんか離婚率について調べてみたのだけれど、

よくわからん指標になっていて、よくわからん。

人口1000人に対して、っていうのが一番意味不明で、

人口1000人の中には老人も含まれれば、

現役世代も含まれ、子どもも幼稚園に通うような幼児でさえ含まれるのだから、

統計のデータとしてマジで無意味な気がしてしまう。

っていう理系的ツッコミはおいておきましょう。

 

まあとりあえず、離婚する人は日本においても増えているわけで、

普通の家庭っていうとわかりにくいし、

普通の基準って何だよ。って思われるだろうから、

普通を定義しておいてあげると、

年収600万から800万の父と、

パートで働きつつ専業主婦の母と、

ある程度の学力があり、成績は割と優秀で、

割と偏差値的にいい大学に通える子どもが二人いる。

これを普通と定義したときに、

これに当てはまる家庭なんて、僕は今まであまり見たことがない。

普通よりも上である家庭ならいくつか心当たりがあるが、

ドンピシャで普通の家庭を見たことがない。

 

そんなことを普通と定義しているのがそもそも異常なのは、

おいておき、いや、おれは普通を定義するためにこんなに文章を書き連ねているのではない。

感想を書くために文章を書き連ねているのだ。

本題に戻ろう。

 

普通が定義されたとして、

普通に、真面目に、まっとうに、

家庭が保たれ続けるのはマジで難しいことなのではないだろうか。

僕の家族が、家族崩壊せずに、形を保ち続けられているのは奇跡に近い。

いや、奇跡そのものか。

僕は未だに、両親が夫婦であり続けていることが謎すぎるし、

夫婦って謎な関係性だな、といつも思う。

結婚って謎なシステムだなと本気で思っているし、

愛が持続するという理想を制度化して正当化して、

それで幸せに暮らせていた世代が存在することが一番の謎だなと思う。

 

家族関係ってマジで謎。

謎すぎるよね。って思う。

 

「毎日、この人だれ?」って思うくらいの鮮度を夫婦で保つのは可能だろうか?

この小説の結末部分を読んだら、

誰しも、見出しにあるようなことを考えてしまうのではないか。

僕は少なくとも考えてしまったし、

それが理想的な関係だと思うのは僕の偏見だろうか。

 

夫婦が生活していると、夫婦ではなく家族になって、

家族になると、お互いが男と女ではなく、

ただの家族としての一員に成り下がってしまうような気がするのは、

この小説でも描かれているところである。

 

家族に成り下がってしまうと、それはいて当たり前の空気のような、白米のようなものになってしまって、味気ないものになってしまう。

 

人は何歳になっても鮮度を保ち続けないと、

面白い人生を歩むことはできないし、

何かを諦めることが老いなんだと僕は思っている。

 

だから、夫婦が老いるときっていうのは、

お互いに対して諦めたときであって、

諦めるっていうことが積み重なると、

夫婦っていうのは家族に成り下がっていくんだと思うわけで。

 

何かを諦めずに挑戦していく姿勢が

青春そのもので、

岡本太郎が再三叫び続けていたようなことではなかったか。

 

だから、僕がもし誰かと夫婦になるのだとしたら、

お互いが、「毎日、あなたはだれ?」

って思えるくらいの新鮮な毎日を過ごしたいなと思ってしまう。

でも、それを相手に強要することはできなくて、

僕は一生結婚することはないのかもしれないなと、

少しさみしいような気分になった。