ZAKIOLOGY

学ぶ楽しさを探求する

免許取ったぜ!という話

お疲れ様です。

別に疲れてなどいないけれど、

お疲れ様です。こんにちは。

 

今日は、尾崎人権宣言の日らしい。

何を言っているのかわからない方がほとんどだろうけれど、

要は、免許を取ったということである。

 

免許をとるのって大変ですね。

一回、本ちゃんの試験場で受ける試験に落ちてしまいました。

しかもあろうことか89点。

 

あと一点だった。

猛省しつつ、めちゃくちゃ勉強して、

二日後に受かりました!さすがは尾崎!

我ながら素晴らしい!

 

 

二日勉強した末の点数は!

 

 

91点!

 

 

危ない!

なんという綱渡り!

すごいバランス感覚だ!

と脳内実況席では絶叫されていた。

 

いやー。素晴らしいバランス感覚は素晴らしいのだけれど、

 

もうちょっと危なげなく受かりたかったものですね。

 

しかも勉強前との点数の差は2点。

1日あたりにすると、1日1点(笑)

しかもそのうち一点は、

ミニカーの法定速度は40キロの○×(もちろん×)奇跡的というか、この問題は2回受けて2回出た。

 

いや、それ勉強前でもなんとなく覚えていそうな問題やないかい!

とまた脳内実況席の解説員は叫んでいた。

もうこれは年中殺のせいにしておこう。

やっぱりね、年中殺は、

一個一個確実にできるようにしていくのがポイントなんですよね!(汗)

 

ということで、

今日は尾崎人権宣言の日でした!

良い一日をお過ごしください!

 

PS なんでペーパーでも免許を守り続けるのか疑問だったけれど、その気持ちはよくわかった。

俺もペーパーであっても、死にものぐるいで死守するだろう。

 

最初の方は頑張れるけど、だんだん疲れて頑張れなくなるなら、最初から頑張らないほうが良いのか?

今回の内容はタイトルにある通り。

最初の方は頑張れるけど、だんだん疲れてきて、頑張れなくなるのなら、最初から頑張らないほうが良いのか?

ということについて。

長ったらしいけど、ふと書いてみたくなったので、申し訳ない。

 

言いたいことはわかっていただける方も多いと思う。

僕は正直に言って、いい加減な性格をしている。

忘れ物は多いし、なにかやらかすことも多い。

どちらかというと失敗の多い人生を歩んできたと思う。

 

初めて会う人とか、

関わり始めて間もない人には、

なるべく意識的にそういう欠点は出さないようにしている。

 

やっぱり鎧を着てしまう(外面を取り繕うことの形容)し、

別にそれ自体が悪いとも思ってない。

誰だって大なり小なり外面は良くするものだし、

外面を取り繕わなければ、僕は非常識な人間として扱われてしまうだろう。

非常識な人間として扱われてしまうということは、人との関係性が育まれにくいことを意味するし、

それによって伴ってくる負の部分を考えると、どうしても鎧は必要なものだと思えてくる。

 

でも、完璧なわけはない。

鎧にも隙間はあるし、

鋭い矢で突き刺されたら、

木っ端微塵になってしまうわけだ。

 

それほど脆い鎧なのである。炭素のような不純物がたくさん混じった紛い物の金属なのである。

たぶんタフな人というのは、

この鎧を精錬して、鍛え上げた人なのかもしれない。

まさに鋼鉄のような鎧を持ってる人もいるかもしれない。

僕は未熟者だから、そんなことできていないし、今後も中途半端な鎧を身に着け続けることになりそうだ。

 

理想論ではあるけれど、

最初っから鎧を身に着けなくても良い関係性がほしいなと思ってしまう。

でも、それは怖さもある。

なぜなら、鎧を着ないということはもしかすると、生身の体をナイフで突き刺される可能性もあるからだ。

そんな傷を負ってもいい!と思えるほど僕は強くない。

たぶん、今まで子供の頃からの経験で、ナイフで突き刺されるくらい痛い目を見たのだと思う。

 

トラウマは存在しない!ってアドラー心理学では唱えているけれど、そういう幼少期からの痛みのような経験はたしかに存在してるっぽい。

 

その痛みに対する恐怖心はなかなか払拭できないし、だからこそ、その恐怖心を越えるべきときはいつか来るのだと思う。

最近思うのは、そのときがそろそろ来ているかもしれないということだ。

そろそろ鎧を脱ぎ捨てて、生身の体で傷を負う勇気を持たなければならない気がする。

 

僕は最初の方は頑張って鎧を着て、なんとか頑張るが、割とすぐにガス欠に陥る。

キャパは小さい。体力ない。すぐ瀕死。いつもポケモンセンターにダッシュしている。

現実にはポケモンセンターのような回復施設はないけれど、僕にとっては、神社がそういう役割のような場所になっている。

(もちろんポケモンセンターのようなメロディですぐ回復できるわけではない)

 

いつもガス欠になってから、

最初っから頑張らんくて良かったんちゃう?

という疑問と向き合うことになり、

でもやっぱり鎧は着たいよね。。

という結論に着地している。

 

みなさんは、最初っから頑張らないでもなんとかなるのでしょうか?

僕は最初は無意識的に頑張ってしまいます。

頑張らなくても良いよ!ミスしても良いよ!

全部受け入れてあげるよ!みたいな聖母マリアみたいな人はなかなか現実にはいないのではないか。

そう思ってしまう。

 

でもやっぱり、頑張り続けるのは無理があるよねーーー。

どうしたらええんやろか。

結論はまた10年後!

GoogleのPodcastが使いやすくてオススメな件


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GoogleのPodcastアプリを使ってる人を僕は見たことがないのだけれど、僕はヘビーユーザー。

 

 

TOEICの勉強とか興味なくて、勉強しなかったのだが、GoogleのPodcastを楽しく聞いてたらTOEICの点は150点上がってた。

 

塾の生徒にもオススメしてるのだが、

誰も使ってくれない(笑)

だから、はてなユーザーの皆さんや、ブログを読んでいる方々にオススメしておきたい!

 

良いところを3つあげると、

 

1. ダウンロードしてオフラインでも聞ける!

 

2. 連続再生可能で、プレイリスト(キュー)を作っておけば、スキマに聞きまくれる!

 

3. 英語の番組もたくさんあるし、日本語の番組もあり、用途は多岐にわたる!

 

という感じです。

 

僕はAll Ears English という番組をよく聞いていて、

ネイティブの女性二人が毎回20分くらい一つのテーマについて話し合っている番組(もちろんすべて英語)

サブクスもあるみたいで、スクリプトとかを読みたい場合は有料です。

 

でも、僕は聞いてるだけでも英語力上がったような感じがしてるので、

スクリプト無しで聞きっぱなしでも問題ないと思います!

 

んな感じで、GoogleのPodcastアプリオススメです。

アプリの埋め込みがやり方わからないので、

ググってください!

 

読者の方でオススメのアプリあったらコメントしてください!

最近はあんまり新しいアプリ使ってないので、新陳代謝アップしたい!

ということで、最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

本当はもっといろんな話をみんなとしたかった。

半年前くらいにサブログの方に書いていたことを転載しておきます。

久しぶりに読んでみたら、意外と良いこと書いていたので。

それではドウゾ!

常々思っていることだけれど、

やっぱり僕は身体感覚を大事にしていきたい。

 

そう強く思っている。

今の世の中、オンライン空間があるから、

どうしても、

人と人とがわざわざ会わなくてもいいようになってしまっている。

 

身近にいる人ですら、

テキストメッセージだけのやりとり。

仲の良い人ともたまにしか会わない。

 

もしかしたら、僕以外の人はどうでもいいのかもしれないけれど、

僕はやはりリアルな実感として同じ空間を共有したり、

同じ時間を共有したりすることを諦めたくはない。

 

どんなにまどろっこしいめんどくさいことであったとしても、

それは死守するべきことであって、

どんなにそこから目をそむけてみたところで、

結局は人間は人間なのだと。

 

生物としての人間とか、

身体感覚を有した存在として、

つまり言いたいのは、

生身の感覚とか、

肌感覚とか、

そういう「本来の人間らしさ」を持ったまま生きていきたい。

 

今日もそれを強く感じたし、

たとえ、僕が何をしていても、

何もしていなくても、

誰かが同じ空間でしゃべっていたり、

同じ釜の飯を食ったり、

そういう人間的な、

あまりに人間的な営みがどうやっても好きでたまらない。

 

僕の本質として、天の邪鬼であるから、

あえて本当に楽しいときとか嬉しいときに、

感情を表に出さないようにしたり、(できてるかは知らんけど)

特に女の子の前では、ちょっとおとなしそうに(大人らしく?)演じてみたり、

あんまり本来の子供っぽさを出さないようにしている。

たぶん、やっぱり男として強く在りたいとかそういう気持ちが強いのだと思う。

結局、メッキに過ぎないのだけれど(笑)見栄っ張りなんだろうね。

 

たまーにそういう自分を客観視すると、

とても愚かでとても滑稽に感じるけれど、

それでもそれが僕という存在で、

そういう性質までもがもはや愛しいとすら感じる。

 

今回の話に関連している僕が大っっっ好きな本を一冊紹介してみる。

スマホを捨てたい子どもたち 野生に学ぶ「未知の時代」の生き方 (ポプラ新書)

その本がこの本。

この本は本当に面白いし、

これからの社会を生きる上でも大切なことが書かれているので、

ぜひ手にとってみてほしい。

 

この本で言いたいのは、

一言でまとめると、

生物としての人間という意識を取り戻せ!

っていうこと。

 

スマホやらパソコンやら、

デジタルデバイスによって、

僕たちは生物としての人間らしさを失っていると。

 

僕は上でも書いたように、

これには完全同意。

本当に、大事なことだと思う。

 

僕がわざわざ人と会う機会を作ろうとするのも、

わざわざ飯を一緒に食おうとするのも、

結局は、みんなと仲良くなりたいし、

そうやって信頼できる人たちに囲まれて生きたいから。

 

だから、僕は多少無理やりにでも人には会うようにしたい。

こんな世の中になって、本当に悲しく思う。

人と人とがお互いの体温を感じながら、

人の温かみを感じながら生きていける世の中のほうが絶対に良い!

 

どんなことがあっても、僕はそれを信じているし、

今後もそれは変わらないことだと思う。

 

人のぬくもり、温かみ、慈しみ、愛しさ、

そんな生身の感覚と、

心の奥が暖かくなるようなそんなものを大事にしていきたい。

 

こんなことを言っているとバカなやつだと思われるかもしれないけれど、

それでも僕は人に愛されたり、人を愛したり、

そうやって生み出される愛念(あいねん)こそが人には必要だし、

僕はいつもみんなが明るく、軽く、暖かく、熱く、元気になってもらえるように祈っているし、今後もそれは変わらない。

僕の行動原理は愛念。人間愛。でありたい。

結局、みんなのことが好きってこと。

 

それで、ここからは、今思うことを加筆するんだけれど、

僕はもっといろんな話をしたかった。

もっとみんなと一緒に時間を共有したかった。

でも、踏み込みすぎて拒絶されてしまうのが怖かった。

 

どうしても後悔せずにはいられない。

語るべき何かはもっとあったはずなんだ。

語られるべき物語がまだたくさんあるはずなんだ。

どうしたってやるせない。

 

俺にはどうすることもできなかった。

俺だってできる努力はしたつもりだった。

でもなんだ?この胸の痛みは。

物理的に心臓を捕まれているような痛み。

大丈夫、心配ない。

こんなことは時間が解決してくれる。

 

人の縁は月の満ち欠けのようなもの。

欠けてしまう時間帯は一定期間必要。

たしかにその通りだよ。えべっさんは正しいよ。

でもね。俺は待ち続けたよ。この四年間。

待ち続けたけど、さらに月は欠けていってしまった。

新月はこんなものではないのかもしれない。

そう思うと末恐ろしい。どうかこれが新月でありますように。

 

これが僕にとっての第一章なのだとしたら、

第一章、終わり!

って叫びたい。

次の頁から第二章が始まって、

一章で突き落とされた読者に、

新しい希望と展開が待ち受けていないと物語として面白くないじゃないか。

ミステリにはありがちなこの展開は、

たしかに月の満ち欠けに似ている。

 

心の月が他の心の太陽によって照らされる、

そんな展開は待ち受けているのだろうか。

 

でも、それでも、いずれまた新月は訪れなければならない。

だとしたら、なんでまた新しい展開を期待するのだろう。

 

ニーチェなら、そんなもの当たり前だろ!

それがニヒリズムだ!

神は死んだんだ!

だからこそ、人生に積極的に挑め!

と熱くツァラトゥストラに語らせるんだろうけれど、

今の僕にはいささか熱すぎて、やけどしてしまいそうだ。

陰極まったら陽兆すんだろ?

さっさと陽兆しやがれ。

痛みの経験値

痛みの経験値って大事だよなあと最近思う。

というのも、最近バイトで叱られることが多く、

毎回ではないけれど、ある程度は傷ついている。

別に叱られるのは最もだし、

悪いのは僕の方だってこともわかっている。

それでも、きつく言われると傷つくのはたしかだ。

 

前に、バイトで叱られてもなかなか抽象度が下がらなくなった!

みたいなことを書いたけれど、

抽象度は下がらなくても傷つきはする。

多少は引きずるし、

多少は罪悪感に苛まれたりもする。

 

それでもなんとか耐えるというか、

気持ちを切り替えて下がりすぎないようにできているのは、

明らかに、その種の痛みを経験済みだからだ。

 

叱られる痛みは、うんざりするほど中学時代に経験した。

剣道部に入ったら、なんと鬼のような先生との邂逅(かいこう)を果たしてしまう。

小学生のときから温室育ちのヘタレだった僕は、

とてつもなく叱られた。

一年目はかなり落ち込んだし、たまにサボったりもした。

 

でも二年目からは叱られることが当たり前になり、

叱られたとしても気にしなくなった。

 

そりゃ最初は死ぬほど部活が嫌だったけれど、

それも一年経てば慣れてしまう。

 

慣れというものは恐ろしいもので、

そのときの慣れが今現在でも活きている。

 

痛みに慣れるのは、正直誰もしたくないはず。

僕だって必要に迫られない限り、そんなことしたくないし、

だからこそ今の今まで辛いバイトは避けてきた。

 

あるときはバイトに申し込んだはいいものの、

直前になって、ぐぐったらネガティブな情報が出てきて、

怖くなって面接をバックレた。

 

今思えば、かなり迷惑な行為をしてしまったなと思うし、

申し訳ない気持ちでいっぱいだが、

たぶん今だから耐えることができているのかもしれないとも思う。

 

叱られる経験は経験していたし、

そのときもなんとかなったのかもしれないけれど、

一人で生きることができるほど、

もしくは一人で問題を解決できるほど、

エネルギーはなかったのだと思うし、

僕にはモラトリアム的な休養期間が必要だったのかもしれない。

 

また別の種類の痛みも経験した。

その痛みは、過去最大だった。

孤独という痛みだった。

ある一期間において、ひたすらに孤独だった。

よく眠れない日が続いた。

 

その痛みに比べたら、

多少の圧力、多少のきつい言葉、きつい仕事は、

まだましだとも思えてしまう。

 

ポケモンですら、痛みを知って、経験値を得て、レベルアップしていく。

僕ら人間はなおのこと、痛みを知って、経験値を得て、レベルアップしていかなくてはいけない。

 

あとひとつだけ、ヒントとして残しておくと、

「よくわからない」ことに対しての痛みは、大きい。

これはこういう痛みなんだ!ということがわかるだけでも痛みは減少する。

だから人間は、なんでも経験して痛みを知っていくと、強靭になっていくのだと思う。

 

一回山を乗り越えてしまえば、それは経験済みになり、

二回目からはその労力の半分くらいで登りきれる。

 

あー、それね。知ってるわ!

という状態をあとどれだけ作れるのだろうか。

僕はその数に応じて痛みに耐性を持てるのだろうか。