ZAKIOLOGY

学ぶ楽しさを探求する

「12歳の少年が書いた量子力学の教科書」に感動した!

或る未知の学問領域に進入しようという時、その如何を問わず、最初に為すべきことは、その学問領域がどういうものかを知ることである。

 

 

この一文で始まるこの本には感動した。

自分よりも10歳も若い人間がこんな書き出しをできるのか、と思った。

それだけではなく、去年量子力学を学んだときに疑問だったところ、理解ができていなかったところがふんだんに解説されていて、専門書を読み込むのが億劫になっていたにもかかわらず、読み通せた。

要所要所で、偉大な物理学者たちのことばを引用していたのも非常に面白かった。

僕は昔から偉人伝が大好きで、

小学生のころは、図書館で宮本武蔵、伊達政宗、前田慶次、徳川家康などの偉人の漫画を読みあさっていた。

ちなみに、伊達政宗の漫画を読んで、独眼竜に憧れた僕は、たまにものもらいになりたいと思った笑

とくに好きだったのは、アインシュタインの伝記である。

小学三年生にして、僕はE=mc^2を知っていたし、エネルギーは質量×光の速さの二乗なのだと知っていた。

二乗がどういうものなのか知らなかったけれど笑

この本の中でも、ファイマン、シュレディンガー、ハイゼンベルク、ボーアなどの逸話や発言などが書かれている。

世界にはこれだけ自分がどうやっても及ばない天才がいるという厳然たる事実を知ると同時に、これだけの天才達が積み上げてきたものを体系的に学ぶことができる現代に生きていることの幸せを感じる。

理系に進んだことのメリットがあるとすると、理系にしか学べないことがあるということだけだろう。

どんな哲学でもどんな社会学でも理系は学べるが、

数3をやらない文系には量子力学は学べない。

理系に進むのは覚悟がいるが、理系にしかできないことは存在する。

理系であることのありがたさを感じさせてくれた。

近藤龍一氏には感謝しかない。

 

 

人生には外れ籤なんて存在しない

「ミュージカルの名作って、人間は醜いから仕方ないよね、じゃなくて、そこから歌でも何でも歌いまくって力業でどうにかしてやろうって気概があるじゃないですか。人種差別とか独裁政治とか、そういうひどい環境に生まれた自分を悲観するのははじめの方だけで、一見外れ籤の運命を受け入れてそれでも立ち上がっていく強さがあるっていうか」

朝井リョウ 著 「どうしても生きてる」籤より

朝井リョウ氏の「どうしても生きてる」が凄まじい。

痛い。

激痛。

わかりみが深すぎて心がえぐられる。

どの短編も「そんなの痛いに決まってる」っていう感じで、

現代の生きづらさとか、現代の辛さとか、現実とかリアルとか、

そういうものをこの人以上に描ける人は存在しないのではないか

と思った。

朝井リョウ氏の本を読んだのは一年前。

何者をちょっと読んだだけだった。

なんだ、こんなふうにツイッターとか使いながら現代的なものを描いてるだけか、

みたいなことを思って、ちょっと読んだだけでやめてしまったが、

いかに自分が愚かであったかを今では痛いほど理解してる。

こんなすごい作家がいた、しかも著作を持ってもいた。

それなのに、わかった気になり、わかろうとしなかった。

 

思いっきり懺悔したい。

「ああ、朝井リョウ氏、どうかこの罪深い私(わたくし)をお許しください」

今日みたいなクリスマスイブには懺悔もしたくなる。

 

許されるもなにも怒られてもいなければ、何も罪も犯していないし、

なんなら僕は性善説で、原罪、オリジン・シンくそ喰らえなわけで、

懺悔なんて何も効力を発揮しないのだけれど。

 

どんな外れ籤だろうが、どんな貧乏籤だろうが、与えられた環境で受け入れて生きていくしかない。

受け入れられないなんて選択肢は存在しなくて、受け入れて生きていくしかない。

大通りを大股で闊歩している人生でも、ふとしたときに、脇道しか進めない道に行き着くことだってある。

大通りを大股で歩くことに慣れず、自ら脇道に進んだわけではない。

それでも、脇道にそれたらそれたで、進んでいくしかない。

 

人生に外れ籤なんて存在しないし、

外れ籤としか思えないようなことはあるけど、

結局のところ、籤の結果には良い悪いも善悪もない。

短期的目線と長期的目線では善悪の基準も鮮やかに反転する。

この物語の中でも、明転して終わる。

 

キリスト教的な善悪なんて結構な速度でドカンと反転する。

今日日、この程度じゃ騙せないんだぜってキリストに言ってやりたい。

そんなクリスマスイブでございやす。

予定を立てたくない人間

僕は予定が大嫌い。

一切予定を立てたくない。

毎日朝起きて、

「あーひまだー。何しよーかなー。(´∀`∩)↑age↑」

と叫んでいたい。暇なときほどテンションが上がる。

 

もちろん、こんな考え方では現実世界では生きていけない。

だから、いやいや、やむおえず、仕方なく、本当は嫌だけど、予定を立ててあげている。(僕のために)

こんな人間なため、

奇跡でも起きない限り友達と会うことがない。

普通の人間は、予定を立てるらしく、

みな予定が空いていないのだ。

いつも「今日ひま?」

というLINEを送り、速攻で「ごめん、暇じゃない」と返信がくる。

 

だいたい、この時期は魔の時期で、

クリスマスだの、年末だの、年始だのと、みな予定を立てやがる。

僕はキリスト教徒ではないからクリスマスなんてどうでもいいし、

年末は実家で日本酒を飲みまくるし、年始なんてものはバイトがあるため存在しない。

 

だいたい僕はいつも暇を持て余しているのに、みんな忙しすぎではないだろうか?

僕がおかしいのだろうか?

交友関係は広くはないから、たしかに遊ぶ友達がいないのだけれど、

僕を誘うという発想力がみな欠如しているらしく、あまり誘われない。

というか、僕の周りの人達は、みなそれぞれ別の友達、彼氏彼女を持っているから、必然的に予定は合いにくい。

別に一人の時間は好きだし、こうやってブログを書くのも、本を読むのも、オンライン将棋をするのも基本一人でないとできない。

だから、一人でいいのだけれど、暇すぎる日には誰かと会おうか、という発想に僕はなりやすいから、誰かを誘う。

けれど、誘うときにはみな予定に自縄自縛になっているっぽいから、予定が合わない。

 

一人だったら一人でも楽しめるし、

別に友達と会うのも嫌いではない。

 

けれど、予定を立てるのが嫌いな人間は、誰とも予定が合わず、

結局、一人で過ごす時間が増える。

それはそれで、自分と向き合う時間ができて良いか。

まあ、別にどうでも良いのだけれど、予定を立てたくない人間はこうなりがち。っていうこと。

 

予定を立ててまで人と会う気はないけれど、暇だったら誰かを誘う。

そういうふざけた人間が僕である(笑)

 

他者としての親子関係

子どもは変わるのである。小さいころ親を必要としていたようには、大きくなって親を必要とはしない。それが正常な成長なのである。小さいころの親と子の結びつきは弱さからの結びつきである。しかし、成長してからの結びつきは、強さからの結びつきに変化しなければならない。

加藤諦三 著 「安心感」より引用

親子関係というものは非常に大きなテーマである。

誰しも人間関係の基礎、本質は親子関係から学ぶからである。

親子関係が成熟していないと、親離れ子離れができない。

自立には二種類ある。

精神的な自立と経済的な自立だ。

経済的な自立は、わかりやすい。

自分で自分の生活を成り立たせていくという自立。

一方で、精神的な自立はわかりにくい。

というのも、精神というものは目に見える形で現れにくいからだ。

お金ならば数字があるし、

経済自体も数字で測ることができる。

しかし、精神は測れない。数字はない。

メンタルの強さを数字で計測できるようになったらそれこそわかりやすいわけだが、

人類がどれだけ進化したところで、内面を完璧な数値化することは難しいだろう。

 

親子関係を強さからの結びつきに変えるとはどういうことだろうか。

精神的な自立をした親と子で結びつくということなのではないか。

経済的な自立はもちろん必要だが、精神的な自立の方が簡単なようで意外とできていない。

精神的な自立をした親と子で結びつくというのは、共依存の関係を脱出するということ。

お互いに自分の人生を歩んでいく。「他者」として関わっていく。

良い意味で、親も子も他者の内の一人だと捉えることが肝要だと僕は思う。

 

 

利他が利己に変わる瞬間

利他的な行動には、本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれています。

重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。

思いは思い込みです。そう願うことは自由ですが、相手が実際に同じように思っているかどうかはわからない。

「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が

「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。

「利他」とは何か より引用

利他と利己は紙一重。

ちょっとしたエゴが行き過ぎるとその瞬間に利他は利己に成り下がる。

エッセンスだけ凝縮していうと、

恩着せがましさが利他には含まれない。

恩着せがましい人は利他的ではないし、

これをして「あげた」んだから、には利他的精神はみじんもふくまれていないのだ。

だいたい、表面上を取り繕う人には利他の精神はない。

表面的に冷たそうな人のほうが利他的であることは多い。

というか一見冷たそうに感じた人は僕にとっての師になってくれた場合が多い。

一見すると厳しさを感じたり、一見すると冷たさを感じたりすると、

僕は「お!これはいい人に出会えた!」と感じる。

耳心地の悪いことを言ってくれる人は長期的な目線に立って僕のことを見てくれる。

耳心地の良いことしか言ってこない人は短期的に僕を利用しようとしていることが多い。

何事もそうだが、短期的な目線だけでは上手くいかない。

中長期的視野こそが肝要である。

 

行為の果実を求めない。恩返しを求めない。

もっというと、恩送りをしようとする。

それが利他には欠かせない思想であり、

本物の利他には恩着せがましさがない。

清々しい神社のような空気が宿る行為

それが利他的な行為だと僕は思うのだ。