ZAKIOLOGY

受験生から大人まで勉強を楽しみたい人のために

学生同士の「おごるおごらない」はナンセンス

こんにちは。

おざきです。

 

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今回は、「学生同士のおごるおごらないはナンセンス」というテーマで書いていこうと思います!

僕は、学生同士のおごる、おごらないっていかがなものなのか?

と思うのです。

今、大学3年で、おごられる立場から、おごる立場に変化してきているのですが、

 

ぶっちゃけ、無意味でしかない。

 

「そういうお前も、1年生や2年生のときにはおごってもらったくせに」

と思ったかたもいるかもしれませんね。

 

たしかにおごってもらっていました。

 

しかし、僕の場合は、先輩に対して失礼のないように、

かなり誠意を尽くしていましたし、おごってもらうにしても、「いい気持ち」でおごっていただけるようにしていました。

 

そういう姿勢を貫いていたし、

おごってもらえるのは当たり前ではない。

先輩もさぞおごりたくはないだろう。

と思っていたので、

おごってもらうにしても、なるべく価格の低いものにしたり、

負担のないように努めたものです。

 

しかしながら、

そういう敬意も払うこともできない。

愚か者たちがいる。

 

奢られる側の態度がなっていない。

 

そもそも論として、後輩におごられる側としての姿勢がなければ、おごる必要性はありませんし、

ただただお金の無駄遣い。

 

もしかりに、後輩におごられる側の態度が伴っていたとしても、僕はおごることはナンセンスだと思っています。

 

なぜなら、学生だから。

 

学生というのは、そもそもお金をそんなにたくさん持っているわけではない。

 

多くの大学生は、バイトをしていますが、

そうやって必死こいてバイトして稼いだお金をよくも安々と使えるな。

と思います。

 

僕は、自分で必死こいて稼いだのに、そのお金を無駄にはできない。

 

正直言って、

「学生同士のおごるおごらないってアホらしいな。」

と1年生のころから思っていました。

 

なるべく食事の席には参加しないようにしていましたし。

 

それは、僕が上の世代になったときにおごる必要性をなくすためでもありました。

 

言い訳づくりですね。

「俺は、そんなにおごってもらってないし」

っていう言い訳。

 

してもらったのなら、それ相応にしてあげても良いのでしょうが、

それほどしてもらっていないので、後輩にもしてあげる必要はない。

 

 

そもそも、僕は後輩におごるためにバイトしているわけではないので。

 

僕はバイト代はすべて勉強代にしています。

 

月3万くらいのバイト代なのですが、

なぜ月3万にしているか?

1日1冊本が買えるからです。

 

そして、絶妙なバランスなのです。

 

バイトして、お金を稼いで、かつそのバイト代がすべて勉強代に使えて、かつバイトしすぎていないから勉強する(読書する)ための時間も体力も確保できる。

そういう絶妙なバランスを僕は大学2年間を通して見つけたのに、そのバランスを崩されることに憤りを感じるわけです。

 

 

もしかりに、後輩におごったとして、3000円かかったとします。

そしたら、僕は三日間本を買えなくなってしまう。

 

「そんなの我慢しろよ」

というのは暴力です。

なぜなら、一介の大学生には本3冊分の情報量もないし、知恵も知性も教養もない。

飲み会の3000円の無駄遣いと3冊で3000円の中につまっている知恵なら、

3冊の知恵を選ぶのが当然です。(仲の良い友だちは別ですよ。当たり前ですが)

 

「我慢しろ」というなら、

「じゃあお前が俺の分も払っておけよ」

そう言いたくなります。

 

極論、おごりたいやつだけおごっておけばいい

 

とにかく、僕はおごってあげてもいいなと思える後輩でない限り、今後一切おごる気はありませんね。

 

おごられる側が、いかにしておごる側にいい気持ちでおごってもらうのか。

それを理解していないと、先輩からものすごく嫌われるのだな。

と自分の痛みを通じて学んだ次第です。

 

ちょっと愚痴っぽくなりましたが、それが本音です。(こうしてちゃんと学びに変えてるので許してくださいw

 

 

僕は、お金は心血である。と思っていて、

お金は心血、心の血を具現化したものです。

お金を稼ぐには相当の心血を仕事に注がなくてはならない。

それを知っているので、お金(心血)を無駄にするなど言語道断。

 

ハイデガーのいう取るに足りない「ダス・マン」のために「ダーザイン」がお金を使うわけはありません。

 

それと、僕のお金の使い道は僕だけが決める。

ただ、僕は間違ってるかもしれない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

では。

 

神道と剣道のつながりを思う存分に語ってみた。

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(なぜ西宮を選んだのかと言えば、西宮には蛭子大神のほかに天照大神須佐之男大神が祀られており、須佐之男といえば、十拳剣(とつかのつるぎ)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)草薙の剣(くさなぎのつるぎ)ということで「剣と言えば須佐之男」というイメージより)

こんにちは。

おざきです。

前回は、剣道から学ぶ「美意識」というテーマで書きましたが、

今回は、神道と剣道というテーマで書いてみようと思います。

 

神道と剣道になんのつながりがあるのか

ということですが、

 

神道は宗教だと思われている方もいますが、

神道は宗教ではありません。

具体的な教え、戒律などがないため、

ただ単に「宗」です。

 

神道と剣道の共通点というのは、

これといって決まりがあるわけではないけど、

みんなの当たり前の感覚の中に暗黙のルールが横たわっている。

ということです。

 

剣道も確かに決まりは多少あります。

しかし、これをやってはいけない。こうしなければならない。という厳密なルールはあんまりない。

みんな「なんとなく」中段の構えだけれど、下段をやってもいいし、上段でもいい。

 

別に決まりがあるわけではないけれど、「なんとなく」みんな年長者を敬う。

 

「なんとなく」美しくないからこれはしないほうが良いだろうな。っていうのがルール。

なんとも曖昧。

 

審判も曖昧。

別に確固たる理由も確固たる一本なんてわからないけれど、

とりあえず「なんとなく」一本を判断する。

 

これはまさに神道的。

 

神道の重要な考え方として、

「偶然は神なり」

ということがあります。

 

ぶっちゃけ、剣道においては、偶然の連続です。

なんかよくわかんないけど一本取れた!(取られた)

とか

なんかよくわかんないけど勝った(負けた)

ということがよくあります。

 

冷静に見てみれば、どんなスポーツであれ、ときの運というものに左右されたりしますよね。

結局、人生において、偶然というのは天文学的な確率で起こっているわけで、

どこまで実力を高めても、実力が拮抗するところでは「運」や「偶然」に左右されることが多いわけです。

 

この「運」や「偶然」に神なる働きを感じるのが神道です。

偶然起こったことに何かしらの啓示があると捉えるわけですね。

 

これは、日本の地理的な問題もあります。

日本は古来から、天変地異、自然災害が多い。

そのため、偶然起こった、天変地異、自然災害に対して畏敬の念を抱いていた。

日本の場合、自然は豊かで四季も豊か、水もきれいで、森林に囲まれ、まわりには海が広がっている。

そういう恵まれた自然がある一方で、自然の脅威にもさらされてきた。

だからこそ、自然に対する畏敬の念が芽生えたのでしょう。

西洋的な一神教的価値観では自然は人間が管理するものだと捉えますが、

日本的な多神教的(神道的)価値観では、自然は人が介入できるものではなく、敬い畏れるもの。

わかりやすく言うと、

西洋的価値観は「自力」で

日本的価値観は「他力」です。

日本人は「他力本願」という言葉が象徴する通り、自らなんとか「する」というより、

他力によってなんとか「なる」という考え方。

「なんとかなる」と言えば、宮本真由美社長ですが、

斎藤一人さんの教えの中に「なんとかなる」という言霊がある。

それに関しては、なんとかなるの奇跡という本がオススメです。

 

斎藤一人「なんとかなる」の奇跡

斎藤一人「なんとかなる」の奇跡

 

 

「なるようになるさ」といういい意味での諦観、そして祈りがあったんですね。

 

「なんとなく」という部分や

「なるようになる」という部分

が非常に神道的なわけです。

 

日本人の性質にも似たような部分はありますよね。

それが「空気」です。

 

「空気を読めよ!」っていうツッコミは日本でしか成り立ちません。

他の国では「空気は吸って吐くもの」でしかありません。

広い意味での同調圧力は集団心理としてどこの国にもあるのかもしれませんが、

それを「空気」と捉えるのは日本独特のものでしょう。

 

空気とは、当たり前に存在するものであり、目に見えないのに、そこにあるように感じる。

そういう感覚が日本的で神道的。

 

言ってしまえば、神道は日本人にとって空気も同然です。

当たり前過ぎてだれも意識していない。

そういうものが神道です

 

神社は「なんとなく」良い気がする。

「なんとなく」神様いそう。

 

っていう感覚。

 

自然崇拝と言えば自然崇拝なのでしょうけど、

自然崇拝という言葉で片付けるにはもったいないような感覚ですよね。

 

で、ずっと神道について語っていましたが、

そういう「なんとなくいい」とか、「なんとなく美しい」

っていう感覚が審美眼を育んでいて、

剣道にも生かされているのです!(やっと剣道にもどったw

 

審美眼というものを育む最強のツールとしての剣道でもあるように感じます。

 

剣道を通して、「美しさに対する感度」を高めるといいますか、

剣道をやっていると違和感が出てくる。

「なんかちゃう」「なんか歪んでるな」

みたいな「えもいえぬ違和感」が美しさを追い求める過程では必要不可欠。

 

そのような違和感を感じるためのツールのような気がします。

 

今回は勢いで書いたので、まとまりがないかもしれないですが、

そこはご愛嬌ということでw

 

最近、神道と剣道ってめっちゃつながってるやん!

っていう感動に駆られてしまい、ずっと書きたかったんですよねw

 

神道は「神に至るための道」ですから、美しさすらも超越しているとも言える。

そして、神道は「道」と名のつくものの中で最も抽象度が高い思想ですから、剣道とつながる部分があって当たり前といえば当たり前。

 

そんな感じですw

 

 

 

剣道から学ぶ「美意識」 

 

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こんばんは。

おざきです。

今日は剣道の稽古に行ってきました。

最近は2週間に一回くらいのペースで剣道をやれています。

本来は週1回くらいのペースでできるのが理想的なのですが、

今は春休みということもあって、それくらいでも良い感じです。

 

今日は「左手で攻める」ということと、「下がらない」ということを意識して稽古しました。

というのも、前回の稽古で先生に指摘されたのが、「左手」と「下がる」ことだったので、

今回はそれを意識して行いました。

 

さて、前置きはさておき、

剣道というものは非常に奥深く、いつまでたっても進歩しているのかどうかわからない。

昔から言われている大事なことは変わらないのに、いつまでたっても同じ事を注意されているような気がする。

いや、ある一時期乗り越えたつもりになっているが、それがまた何年後かに課題として顕在化する。

 

ニーチェのいう永劫回帰みたいな感じ。

 

剣道の場合は、永劫回帰というより永劫螺旋。

おんなじところをグルグルまわっているかに見えるのですが、

実際は、成長していますから、同じ悩みを持ったとしても、少し高い次元から悩んでいるという感じです。

 

螺旋階段をずーっと上がっていくようなもの。

 

人間のDNAも二重螺旋で、らせん状の構造なわけですが、

剣道もらせん状です。

 

道というものを極めようと思ったら、それはそれは大変なものです。

 

いや、極めたと言える境地すらどこにあるのかわからない。

本来極めた人などいないのかもしれない。

「極めているようにしか思えない人」はたくさんいるけど。

 

永遠に続く道。

 

剣道というのは不思議なもので、

正道を貫く剣道をする人しか続けないのです。

 

中学のときなどは、いろんな人が剣道をやります。

邪道の剣道をやる人もいますし、正直汚い剣道をする人も多い。

しかし、高校、大学と上に上がって行くにつれて、邪道の剣道をする人が減っていく。

 

これはおそらく、学生剣道にありがちな、「勝つ剣道」に由来するものだと思う。

邪道の剣道が正道の剣道に勝つことなんてあるの?

と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれない。

 

あるんです。

 

実際に試合などを見ていると、

「絶対にこっちの人の剣道の方が美しいのに…」

とやるせない気分になることもしばしば。

 

ときには正道が邪道に負けることはあります。

 

しかし、大人になるにつれて、邪道の剣道をする人は少なくなっていく。

 

試合における価値がだんだん薄れていくからだと思います。

 

学生や若い未熟者は、試合に重きをおきます。(僕も含めて)

未熟者は競争の中でナンバーワンを目指さなければ鍛えられないからです。

 

しかし、大人になるにつれて、試合の機会は減っていきます。

どっちかというと段審査の方に重きを置かれる方が多い。

 

剣道は、ぶっちゃけ勝つだけなら邪道の方が楽だと思います。

なぜなら、効率的だから。

試合で無理矢理にでも押し出した方が効率が良いし、

竹刀を落とさせるようなテクニックを使った方が効率が良いのです。

 

しかし、剣道の目的は人間形成。

美しい人間性を兼ね備えた人物を目指すのが剣道なわけで、

そんなことをしている奴は美しくない。

 

美しくかつ強くあろうとする。

その気持ちが強い人ほど剣道を続けるのだと思います。

 

余談ですが、最近の本には「美意識」がテーマに上がっているものが多いです。

たとえば、

 

 

 

 などなど。

 

マルクスガブリエル氏は、最後、個人の生のあり方において、

人が生きていると真に感じるのは「美」を感じたときであり、美しさを感じる体験を増やすのが大切だ。

という結論を導いていますが、

美の極地、リミット無限大を目指すのが「道」です。

 

美しさの極地を追い求める、問い続けるのが道なのです。

道の探究方法はそれぞれ異なります。

剣道の場合は剣、刀

茶道の場合はお茶

弓道の場合は弓

と、それぞれ表現方法は異なるものの、根本的に道を探求する。

根本的には「美」という一つの根源につながっているのです。

 

今後の世界において美意識というテーマを重要に感じている知恵者が多く出てきていることに何かしらの裏テーマを感じます。

 

人間の美意識が世界で問われている。

ウイルスによって、美しくない人たちの行動が浮き彫りになった。

人々がこの美しくない方向に向かう世界に疑問を持ち始めた。

 

のかもしれません。

 

そういう時代において、剣道や茶道、道のつく日本の古来からの伝統は非常に示唆に富むものだと思わざるをえません。

 

剣道をやっていることに何かしらの縁を感じますし、今後も剣道を通じて学んでいきたいと思っている所存です。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

では。