ZAKIOLOGY

知見のヨセアツメ

昨日の記事の多少の補足 睡眠と精神の相関について

こんばんは

おざきです。

昨日は死にたくなったら寝ればいいという記事を書きました。

その中では言ってなかったのですが、今日思いついたことがあったので追記的に書いてみます。

結論から言えば、睡眠とうつの相関は強いということです。

僕も夏頃めちゃくちゃ病んで、ぶっちゃけ精神科行ったら軽めのうつと診断されたのではないかと思ってますが、そのときもつまるところ寝れてなかったのです。

夜寝れないし、寝ても寝た感じがしない。そのループによってどんどん疲弊し、その極地としてたどり着くのがおそらくうつなのだと思ってます。

 

そんな感じで、死にたくなったら寝ればいいっていうのは、睡眠することでうつにもなりにくくなるし、寝れたら昨日悩んでたこともある程度は忘れることができたりもしますから、死にたくなったら寝るっていうのは案外大事なのではないかと思っています。

 

で、寝るためにできることなんですが、

 

寝るためには精神的に安定することを求めるより、肉体的に整えていく方がいいと思ってます。

 

心身相関ということばの通り、やはり心と体は連動しています。

 

つまり、どっちかが乱れたらどっちかで補完することは可能であるということも言えます。

そうやってバランスをとっていくのが人間らしさでもありますから、うつにならないために寝たいというときは、物理的な要因でカバーしていくのが良いだろうと思います。

 

物理的な努力は案外金さえかければいくらでもできますし、金をかけなくても結構対策できたりします。

 

金をかけないでできる対策の例をあげておきますので参考にしてください。(当たり前なやつもありますが)

風呂に入る

湯船に20分つかる

体操する

耳栓(騒音対策)

 

などなど、こだわればいくらでもこだわれると思いますし、大金持ちほど睡眠環境にはうるさいという話もよく本に書いてあることでもありますから、睡眠について少し見直してみても良いかもしれません。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

では。

 

 

死にたくなったら寝ればいい


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死にたいことってなんだろうとあえて考えてみた。

結論から言えば、死の定義は自分で決められる。

僕は死を寝ることに含まれるものだと定義した。

死んだら永眠というし、深い眠りについたとも表現する。

ならば、死は眠りの一部なのではないか。と。

では、あー死にたい。という感情は、あー寝たいと同じ。

しかし、集合を考えると、必要十分条件ではないから、あー寝たいはあー死にたいと同じではない。

 

僕にはこんな捉え方が腑に落ちた。

 

最後に今回得た知見を下に備忘録てきに書いてこの記事は終わりにする。

死にたくなったら寝ればいい。

死にたいのに寝れなかったら死ねないのだと思って諦めればいい。

死ねないのならひたすら起きて眠くなるまで待てばいい。

そうしたら死ねるときがくるかもしれない。

以上です。

 

追記、そもそも僕は自傷行為が怖すぎて傷つきたくないだけです。

めっちゃ生産性なくて申し訳ない

満腹なのにそれでも口につめこむと美味しくないどころかただ辛いだけ

今日は、友達とカラオケに行ってきたということをたぶんここであえて書くのは角が立つだろうし、もしその友達が見たなら不快に思うかもしれない。

しかし、僕のネガティブな感情はこのままだと成仏してくれなさそうなので、それも承知の上でかいてみようと思う。

タイトルのようなことは誰しも経験があるだろうが、ラーメン屋で食い意地を張り、あえて大盛りを選んだら、味に飽きてきて、ただただ美味しくない。

それは、ほかの分野においてもそうだ。

カラオケでもう歌い尽くして満足していてそろそろ飯に行って寝たいと思っているのに、まだ時間があるからというだけの理由で歌い続けるのはただ辛いだけである。

それでも僕は、ある程度は空気を読み、合わせようと試みた。

しかし、無理だったのである。

飽きたものは飽きたのだ。

もう満足~という幸せな状態のままできれば一日を終えたい。

孔子の言葉で、過ぎたるは及ばざるがごとし。というものがあるが、食べ過ぎは空腹と同じくらい気持ち悪い。

僕は人よりも、そのキャパが狭い。というか、すぐに飽きる。

カラオケであれば、一人で90分くらいが一番ちょうどいい。

 

元来僕はヒトカラが好きである。

今日はあえて、友達とカラオケに行ったのであるが、もう心底行くのはよそうと思った。

ヒトカラの方が圧倒的に幸福度が高い。

人に合わせるのが好きではない。

しかし、僕はかくれ繊細さんである。

つまり、外向的で敏感なのだ。

だからある程度、人に合わせられてしまう。

鈍感であったならどれだけ生きやすいのだろうか。

 

いいや、そんなことを考えるのはよそう。

鈍感にはなることはできないのだから、この敏感さとうまく付き合っていくことの方が大切であることは間違いない。

 

僕は元来、自己矛盾の多い人生を送ってきた。

葛藤の多かった人生だと自覚する。

 

それは今はどうでもよくて、話をもどそう。

そう。

満腹なのに、それでも口に食べ物を入れるのはただ辛いだけなのだ。

 

言ってしまっては悪いが、それを強要するのはパワハラである。

僕はカラオケで友達からパワハラを受けたのだw

 

なるほど、パワハラというのもがいかに人を苦しめるかがよくわかった。

やはり、実体験にまさる知恵はない。

結局は、本に書いてあることも自分の体験によって知恵に昇華させることが一番肝要である。

今日のカラオケのパワハラにおいて、僕が学んだ知恵を備忘録てきに書いてこの記事は終わりにする。

 

めんどくさい奴は無視する

めんどくさい奴は無視されるとシュンとして、意気消沈する

無視するときに有効なツールがスマホである。

どんなにつっかかってこようともスマホの画面は現実を救ってくれる

満腹になったら、残せば良い

人に合わせるのが辛いなら、一人でカラオケに行けば良い

それでもあえて友達とカラオケに行くのなら、嫌になったら金だけおいてさっさと帰ればいい

 

以上です。

 

 

剣道をスポーツとして扱うことに対して大反対な理由

こんにちは。

おざきです。

今回は、剣道とスポーツの違いについて書いていきたいと思います。

近年の傾向として、日本固有の武道をスポーツとして扱うような風潮がありますよね。

結論からいえば、剣道はスポーツではありません。

よってスポーツとして扱うことは決してあってはならないことです。

 

ここからは、その理由について書いてみようと思います。

根本的には一つしか理由はなくて、

それは、

剣道は道だから

です。

 

道というのは、以前にも書きましたが、理念が大事です。

剣道でいえば、剣道の理念は、「剣の理法の修練による人間形成」です。

 

理念というのは目標と言うより、目的です。

 

目的がそもそも勝ち負けでもなければ、楽しむことでもない。

たしかに、楽しむ剣道もたまにはあってもいいし、勝ち負けを通じて学ぶことも必要ではあります。

しかし、それはおまけであり

本筋は、人間形成です。

 

木の幹がしっかりしているからこそ枝葉が生まれるように、

剣道の幹である理念を大切にするからこそ、楽しむ場面があったりしてもよいのです。

 

一方スポーツには理念がありません。

商業的にも使われるし、プロと呼ばれる人たちはスポーツでお金を儲けている人たちなわけです。

 

理念があるから剣道の方が崇高で気高いのである!っていうことではなくて、

そもそも性質が全く異なるものを一緒に扱うのは違うよね。っていうことです。

 

剣道のルールは曖昧だといろんな人がネットに書いていたりするのを見たりしたのですが、

剣道は曖昧だから良いんです。

剣道の理念をもう一度書いておくと、剣の理法の修練による人間形成です。

 

ルールが明確でないことは、これに由来していると個人的に思っています。

なぜなら、ルールが明確ではなく、一本の基準が曖昧、審判も人間という曖昧な存在であるからこそ、慢心しないのです。

 

それは試合となれば、審判の旗の軽さも多少は違いますし、一本にする基準も少し違ったりもします。

ちゃんとした審判がいる試合、学生審判の試合、いろいろあります。

一本の基準が違うことは、昨今の合理主義のアホな考え方では、一見良くないことに思えるでしょう。

しかしながら、一本の基準が違っても、誰が見ても一本になるような一本は必ず存在しています。美しさを追い求めるのが道ですから。最高に美しい一本は絶対にあります。

そこを目指しているからこそ、多少一本の基準が曖昧でも、慢心しないのです。

 

剣道でよく使うのが、勝って反省負けて感謝です。

 

「勝って兜の緒を締めよ」とはまさにこのことです。

勝っても負けても向上心を持ち続ける。それが剣道としてのあり方であり、そこには合理主義を超えた合理性があるのです。

 

曖昧だからこそ、たまには理不尽とも思える負け方もあるでしょう。

しかし、偶然は神なり。それが神道の考え方です。

理不尽なことにメッセージ性を受け取って、それすらも自分の成長につなげていく。

それが剣道の理念の人間形成につながっていきます。

 

そもそも、日本という国は火山国であり、地震国であり、自然災害の大変多い国です。

自然災害というのはまさに理不尽じゃないですか。大切な人がたった一回の大地震で死んでしまうなんて本当に理不尽以外のなにものでもない。

こういう理不尽なことに相対することが多い日本人だからこそ、剣道みたいな曖昧な文化ができあがったのかもしれないとも思っています。

 

日本で生き抜くためには、理不尽すらも受け入れて、前進していく胆力が必要です。

そのために人間的な成長、人格形成、人間形成が必要だから、剣道の理念ができあがったのではないでしょうか。

そんな崇高で今まで続いてきたものを、現代で書き換えてしまっていいとは到底思えない。

 

 

その理念を壊してまで、お金目的でスポーツとして扱い、商業的な活動をしていくのは甚だおかしいと思いますし、断固として反対です。

 

剣道をちゃんとやったことのない人はこういう問題については本来意見を言うべきではないですから、剣道家以外の意見は全く無価値です。

 

変えてはいけないものがこの世界にはあるのです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

あくまで個人的に思っていることも含んでいますから、ほかに意見があるのも別にいいですし、僕にはあなたの意見は興味がないです。100%僕が正しいので、別に大丈夫です。

 

では。

 

 

 

コーヒー映画の傑作 A Film about Coffee あーコーヒー飲みたい

こんにちは。

おざきです。

このブログでは一切述べてきませんでしたが、実は、僕の趣味はコーヒーを入れることです。

ほかにも趣味はたくさんありますが。

 

コーヒーを毎日豆を挽き、ペーパードリップで毎日入れています。

 

週末にはご縁をいただいたカフェでスタッフとして働かせていただいております。

 

そんな感じで、めちゃくちゃコーヒーが好きなんですね。

で、最近コーヒーに関する映画を見たわけなんです。

結論から言うと、本当に素晴らしい映画だった!

 

コーヒーが好きな人はぜひ見てほしい!

コーヒーに対する概念が全く変わりますし、背景にどれだけのエネルギーがかかっているのかということを映像でリアルに感じることができるので、コーヒーを入れるとき、飲むときの感じ方が全く違います。

 

 

 

この映画を見たら、本当に一杯のコーヒーの奇跡を感じます。

 

そもそも論、一杯のお米すら食べられるまでに相当の人の手を経て、届いているわけで、今の豊かな生活の中では、あんまり意識されないのだけれども、今日飯にありつけていることは奇跡であって、僕は毎日奇跡をいただいているのだと実感することができました。

奇跡は光だとも言えるだろうし、エネルギーだとも言えるだろうし、言い方はいろいろあるのだとは思いますが、その奇跡を感じるからこそ、生きていることに感謝できるし、祈りがうまれるのかなと思いました。

 

良い映画なんで、見てみることを超絶オススメしておきます。

 

最後までよんでいただき、ありがとうございます。

では

今日、死ぬかもしれないと思って生きる

あなたは今日死ぬかもしれない。

事故るかもしれないし、原因不明の心臓発作で死ぬかもしれない。

僕も、今日で死ぬかもしれない。

誰しも、死から完全に解き放たれているわけではない。

その確率が小さいだけだ。

世の中は、ゼロリスクを目指してしまう傾向が強いように感じる。

コロナの第三波と騒がれているが、恐れる必要はないと僕は思う。

食生活に気を付ける、手を洗う、ネガティブな感情をためすぎない。

そういった普通の当たり前なことをやっていれば、たとえコロナにかかったところで死にはしない。

そもそも生きているのは奇跡だ。

もし、地球が太陽にもう少し近ければ、生命はなかった。

今あなたが生きているのは、奇跡である。何億年以上の奇跡の上にあなたはいる。

いつ死んでもおかしくない。

世界では毎日毎日死んでいる人がたくさんいる。

徐々に減ってきてはいるが、栄養失調でなくなる乳児もいる。

あなたは、奇跡のもとに生かされている。

僕は、自分の力で生きてきたとは一切思えない。

なんらかの大いなる存在のはたらきによって生かされているとしか思えないのだ。

僕はそもそも生まれてくるのも奇跡だった。

というのも、僕は、切迫流産の寸前で、血の海におぼれかけてたときに生まれてきた。

そもそも、そんな奇跡のもとに生まれてきた僕だ。

そんな死にかけで生まれてきた僕が21歳である。

奇跡としか思えない。

なぜ、生まれてこれたのか、なぜ、今まで死なずに生きてきたのか。

よりよく死ぬためである。

自分の魂を輝かせ、自分の御霊を輝かせ、美しく死ぬために生きているのだ。

そのためにどうすればいいのか。

一日一生である。

朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。

一日の中で「道」を悟れたならその日の終わりに死んだとしてもいい。

そう思って生きることだ。

毎日そう思って生きる。

ちゃんと生き切って、悔いなく死ねるよう、今日も精いっぱい生きよう。

報道のここがおかしい!報道に対しての怒りについて書かせてください!

 こんにちは。

おざきです。

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今回は、報道のここがおかしい!ということで、報道の無責任さ、報道の残酷な部分について書いてみようと思います。

 

 

最近、10月の自殺者が増加しているというニュースが話題になっていますよね。

www3.nhk.or.jp

僕は一貫して、緊急事態宣言は無意味である。自粛はやりすぎると自殺者が増えるから逆効果であると言ってきました。

下に、過去に書いた記事を参考程度に載せておきます。

 

zakiology.com

zakiology.com

zakiology.com

zakiology.com

zakiology.com

zakiology.com

 よかったらこれらの記事も合わせて読んでみてください。

数字等は少し前のものを使っているので少しずれているかもしれませんが、そこらへんはご容赦ください。

 

新型コロナはインフルエンザ以下(日本においては)

事実として、日本では新型コロナによる死者がとても少なくなっています。

毎年3000人くらいはインフルエンザでもなくなっていますから、現状日本はインフルエンザ以下の死者なわけです。

そもそも、ここまで自粛自粛とさわぐ必要は全くなかったといえるでしょう。

不安をあおるだけの報道

それなのに、各種報道では、不安をあおるだけのことばかりを報道していました。

その結果、全然死者が増えていないのに、経済はどんどん低迷の一途をたどっていて、失業者は右肩上がりに増え続けています。

リーマンショックなどの時にも自殺者が増えていましたから、経済が低迷すると自殺者が増えていくことは容易に想像できました。

結果、10月の自殺による死者は前年比1.4倍です。

自殺による死者の増加のほうが問題です。

直接的にコロナの影響がないのに、自殺が増えてしまっていては、それはコロナ対策としては失敗です。

そもそもコロナが危ないということで自粛を促していたはずなのに、結果としてもっと危ないことになってしまっているのです。

緊急事態宣言の時には、命よりも大切なものはない!なので自粛をしてください!と言っていた。

しかし、自粛した結果が自殺者の増加です。

もう一度言います。

日本では新型コロナによる死者は例年のインフルエンザよりも少ないです。しかも多くは高齢者。もともと寿命が近い人がなくなっているにすぎません。

それで、なぜコロナでほぼ死なない60代より若い世代が職を失い、自殺しなければならないのでしょうか。

なんで報道は、自らの罪を見て見ぬふりをしているのでしょうか。

国民全体的に知性がないのはもちろん問題ですが、なぜ、不安をあおるだけの報道がここまでまかり通っているのか。

有名人の自殺報道についてもそうです。ガイドラインを全く無視した報道のなんと多いことか。

いくら不安をあおれば視聴率があがって儲かるといってもやりすぎです。非人道的です。

報道に頼ってはいけない

はっきり言います。

テレビやネットの報道に頼ってはいけません。

頼ってはいけないというのは、データや状況を把握するためだけに使うべきということです。

そのデータに対する判断や解釈は、自分で行いましょう。

自分で行うためには知識が必要です。

知識は、本から仕入れるのが一番いいですから、読書してください。

新型コロナに関して僕は5冊以上本を読んでいますから、普通の人よりも詳しいです。

そもそもウイルスというのはどういうものなのか。そこからまずは勉強するべきです。

政府や報道などに頼れないなら、自分でなんとかするしかありません。

自分で質のいい情報、信頼性の高い情報を取りに行く姿勢が生きていくには必要不可欠です。

読書しましょう。

最後に

報道に関しては、本当に嫌気がさしてきます。

本当はこんな暗いこと書きたくない。

しかし、おかしいことをおかしいと言わなければ何も変わらない。

少しでも読んでくれているあなたの意識が変わって、報道に対して少しでも疑問を持っていただけたら幸いです。

大きなことを変えていくには一人ひとり変わっていくしかありません。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

では。