ZAKIOLOGY

知見のヨセアツメ

お金で人と比べてしまうときのたった2つの対処法

こんにちは。

おざきです。

今回は、お金で人と比べてしまうときの対処法について書いていこうと思います。

 

 

大学生になると、アルバイトができるようになり、自然とお金で人と比べてしまうことも増えますよね。

 

あいつはあんだけ稼いでいるのに自分は…。とか

 

あいつはいつも良い服着てるのに自分は…。とか

 

そういうときって誰しもあると思います。

 

特にお金というのは数値化されて目に見える結果としてわかってしまいますし。

 

ただ、人と比べても良いことはない。

 

それも事実なわけです。

 

人と比べることは決して悪い訳ではないけれど、人と比べて自分を卑下してしまうのは良くない。

 

ではどうすれば良いのか。

 

1.昨日の自分と比べる

2.圧倒的な理想的な人物と比べる

 

ということが言えます。

 

これは良く言われる話ではありますし、そんなことわかっているよ!と思う方もいるかもしれませんが、今一度確認してください。

 

1.昨日の自分と比べる

これは、昨日の自分と比べて、一歩でも前に進んでいるかどうか。ということを見つめてみるということです。

昨日の自分よりも1.001倍でも良いから成長する。

お金であれば、先月の自分よりも1.001倍でもいいから稼げるようになる。とか

 

 

または、良い稼ぎ方をする。というのも一つです。

 

アルバイトで稼ぐにしても、質というのは異なります。

 

レジ打ち一つとってもお客さんに心地よいレジ打ちになるように改善してみる。

 

そういう改良、改革、改善によって、たとえ同じ額の金額しか稼げなかったとしてもお金を稼ぐ背景としては成長ですよね。

 

そういうちょっとした成長を繰り返して行けばよいのです。

そうすれば、自ずと自己卑下もしなくなっていきます。

 

2.圧倒的な理想的な人物と比べる

 

野球に例えてみますと、

 

イチローに憧れを抱いているとします。

 

イチローであれば、自分の立場のときにどう練習していたのだろうか?と考えながら、練習してみるのです。

 

イチローという圧倒的な理想があると、その理想に近づこうと必死に練習しますし、練習の密度も濃くなっていきます。

 

このように、お金の面でも良い稼ぎ方をしているな。こういう人のように稼げると幸せだろうな。というメンターとも呼ぶべき人を見つけることです。

 

そして、そのメンターになりきって普段の生活をしてみる。

 

そうすることで、お金を稼ぐためのコツや、アイデアも浮かびやすくなります。

 

最後に

今回の知見をまとめると

1.人と比べるのではなく、自分と比べる

2.自分と比べると成長を実感できる

3.比べる人を圧倒的な理想的な人に変える

4.自分の理想的な人ならどうするかを考える

 

躬行実践です。

日常から生かしてみてください。

 

では。

 

中村天風の言葉の威力に畏敬の念を抱いた

前から、気にはなっていたものの食わず嫌いをしていた本の著者の一人に中村天風がいる。

運命を拓く (講談社文庫)

中村天風という名前だけで、なんかすごそうだし、実際本もすごかった。

僕が読んだのは、「運命を拓く」という本。中村天風の本の中には一万円を超えるような本もあるが、「運命を拓く」は文庫本で手に入りやすい。この本には、運命の誦句や勇気の誦句というような感じで、中村天風流のマントラ的な言葉が各章の最後に載っているのだが、音読するとなぜか力がみなぎる感がある。

いろいろなビジネス書や自己啓発書に「自己肯定感を高めるためにはー」というテクニックがたくさん載っているし、いろいろ実践したりしてはみたものの、この中村天風の誦句を唱えるだけで解決してしまうのではないかと思った。

 

その誦句の中でも、修道大悟の誦句が際立っていて、自分は天地自然に恵まれている奇跡の中で生きることができている。悩みなんてちっぽけなものだ。そんなちっぽけなもので悩み苦しんだ日々から脱出し、明るく朗かに生きていこう!と決心できるような内容でした。

 

全文引用すると長くなるので、一部だけ引用してみます。

修道大悟の誦句

そもさん、われら、かりそめにも、天地の因縁に恵まれて、万物の霊長たる人間として、この大宇宙の中に生まれし以上、まず、第一に知らねばならぬことは、人生に絡まり存在する幽玄微妙なる宇宙真理なり。

誠や、この自覚を正しく厳かになし得なば、あえて求めずとても、その身を健やかに、その運命を和やかにするを得ん。

 

 

 

○○なり。や、○○せん。のような昔ながらの言葉の方が唱えていて力がこもりやすいというか、現代語よりも丹田に力がこもるような気がします。

 

中村天風は本の中でたびたび実践躬行という言葉を用いていました。理論として学んだことを自らやってみるという意味ですが、本の内容を一つでも二つでも実践してみようと思います。

全部やるのは大変なので、ピンときたものを日常に取り入れてみようと思います。

 

同調圧力から解放され、自分軸で生きよ

こんばんは。

おざきです。

今回は、同調圧力から解法され、自分軸で生きよ というテーマで書いていこうと思います。

 

 

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同調圧力がはびこる社会

新型コロナがはやり、どこか同調圧力をより感じるような雰囲気になっていますよね。

自粛しなければいけない!自粛しない奴らはけしからん奴らだ!

マスクをしていない人を見るだけでイライラする!

というような感情を持っている人も一定数いるようですし、少し前には自粛警察という言葉もよく目にしました。

 

マスメディアや政府、SNSによって自粛自粛自粛!というような世論が形成されているように感じます。

 

しかしながら、これはかなり危険な発想なのではないかと僕は思うのです。

 

政府がしていることは?と言えば、ひたすらに自粛を要請するだけで、同調圧力によって支配してやろうというような思惑が見えます。

 

実際に、その結果として去年はみんな自粛していましたし、おとなしく従っていましたよね。

一度そういう雰囲気が作られるとそれを打破するのは容易ではなくて、どんどん政府は口だけになっていきます。

 

日本という同調圧力による支配自体は戦争中もあった話でして、それの主なるものが大政翼賛会です。

 

大政翼賛会によって、人々の細かい生活にまで政府が介入していきました。そして、物資は配給制になり、どんどん困窮していきました。

 

今も、同じように人々の細かい行動にすら政府が介入しようとしています。

新しい生活様式なるものがそれです。

 

これはかなり危険ではないでしょうか。一度権力のバランスを崩すと立て直すのには時間がかかります。

 

翼賛的な体制になればなるほど、権力が集まるのは三権分立でいうところの行政です。

 

何の権利があって、個人の生活にまで介入できるのか。

僕は甚だ疑問です。

 

本来、憲法の言うところの基本的人権において、個人の思想、信条は自由であるべきですし、公共の福祉に制限はされるものの、公共の福祉は新型コロナにおいては、感染者を隔離できることくらいにしか適用され得ないものであるはずです。

 

そういう観点から言えば、何人で食事をしようが、飲み会を開こうが、帰省しようが、初詣しようが、個人の自由のはずです。

 

だから、政府やマスコミというのはタチが悪い。

 

憲法的に、個人の自由を侵害してはならないから、あくまで要請しかできないのにもかかわらず、その要請によって世論を形成し、同調圧力という目に見えない支配によって政府にはなんの損失もなしに自粛させようとしていると言っても過言ではないのです。

 

同調圧力から解放され、自分軸でいきるには?

で、今回の本題の同調圧力から解放され、自分軸で生きるための指針として、本に良いことが書いてあったので引用します。

 

特定の信仰を持っていなくても、自分の中に超越的なものに背くことへの畏れ、あるいは揺るがない軸があれば、私的領域に国家がどこまでなら踏み込んでも許容できるのか、はっきり線引きができると思います。翼賛的な同調圧力に対しても距離を保って過ごせるのではないでしょうか。

佐藤優 著 「危機の正体」から引用

 

僕は、もっと限定的に、神道に立ち返ることが大切だと考えています。

 

日本人の中にはすでに神道的な自然への敬いや精霊信仰的なものが根付いていますから、神道に立ち返れば自ずと信仰心は芽生え、揺るがない軸ができあがっていくはずです。

 

 

最後に

皆さんも、同調圧力にだまされてはいないでしょうか?

正しく恐れるということは良く言われることですが、正しく恐れるにはいろいろな意見に耳を傾けることです。

集団免疫説からウイルス学的な知見、生物学的な知見、歴史的な知見。いろいろな知見が世界にはあります。

毎日少しでも学ぶことです。

 参考文献として載せておきます。ぜひ読んでみてください。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

では。

 

 

緊急事態宣言不要派VS必要派

こんにちは。

今回は、緊急事態宣言不要派VS緊急事態宣言必要派ということで、両極端な意見を自分なりにまとめてみようと思います。

 

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ちなみに言うと、僕は不要派です。そもそも不要派なので、少し偏るかもしれないですが、ご了承ください。

 

では、さっそくやっていきましょう

 

緊急事態宣言不要派の意見

1.集団免疫説

集団免疫説については、上久保先生の本を読んでいただくか、YouTubeで調べていただくのがよいかと思います。

僕も集団免疫については、記事を書いたので参照ください。

 

zakiology.com

 

 

新型コロナ

新型コロナ

 

 

2.海外のロックダウンが実効性ない

これは、ニュースなどを見てもらえばわかりますが、どこの国でもロックダウンなど人々の行動に制限をかけていますが、実効性は果たしてあるのかどうか。

日本より強力なロックダウンの措置をとったアメリカやイギリスなどの方が日本よりも断然ヒドイ状況にあるわけなので、緊急事態宣言も効果が見込めないだろうという意見ですね。

3.日本においてもは死者数がとても少ない

これも良く言われる話で、死者数が少ないわけです。

しかも死んでるのは平均寿命を超えているような高齢者ばかり。

平均寿命を超えた高齢者は何らかの原因で亡くなるのが普通ですから、高齢者が亡くなることに対しては驚く必要がないのではないか。という意見ですね。

それと、先ほども書いた通り、集団免疫説というものに基づくと、日本の死者数が少ないこともうまく説明ができます。

4.新型コロナを5類にすれば病床も増やせる

緊急事態宣言が出される理由としては、病床が逼迫しているからで、医療崩壊を防ぐためなわけですが、医用崩壊が起きないようにするという点に注目するのであれば、新型コロナを特別扱いするのをやめればすむではないか。という意見です。

日本は人口あたりの病床数は世界でもトップクラスに多い国でもあるわけで、病床自体はあるのだけれど、その病床が新型コロナに当てることができていないのが問題なのです。

そもそも、冬に風邪が流行るのは当たり前であるし、冬に新型コロナにかかる人が増えることは当然なことで、夏の段階でも予想できた話なのに、政府は新型コロナ対応の病床を確保できなかった。

先進国の中でもかなり感染者数が少ない状況で医療崩壊が起きそうだというのは、ハッキリ言って恥さらしだと言えます。もっと手厚く病床を確保できたはずではないのかということも問題ですね。

5.去年の1月のインフルエンザの死者は約1700人で、一日換算で56人

去年の1月のインフルエンザの死者数を調べてみると、だいたい1700人。つまり一日換算で56人くらいの方がインフルエンザで亡くなっているわけです。

で、今日の新型コロナでの死者が65人ですから、まあそんなに変わらない。

インフルエンザで亡くなる人が新型コロナで亡くなっていると考えるのであれば、大した差がないと言えるわけで、そうすると緊急事態では全くないと考えられるのではないでしょうか。

6.そもそもウイルスは自粛程度で収まるほど甘くない

そもそもウイルスというのは自粛したくらいで終息してくれるほど甘いものではないはずです。コロナウイルスという観点から言えば、もうすでに国民全体に広まっているわけですし、ウイルス自体はどこにでもあるとう状態なわけですから、すこし自粛したくらいで感染しなくなるということは考えにくいですよね。

 

 

次からは必要派の意見をまとめてみます。

不要派からの反論も同時に載せていきます。

緊急事態宣言必要派の意見

1.新型コロナはほかの感染症とは異なる

まず言えるのは、新型コロナはほかのインフルエンザなどの感染症とは異なる。という意見です。致死率も感染力もほかの感染症とは違うわけだから、もっと自粛して押さえ込まないといけないという意見です。

反論としては、

本当に新型コロナはほかの感染症と異なるのかというところに関しては、疑問が残ります。日本においては、インフルエンザと同じくらいの死者数で推移しているわけですし、後遺症に関しても、インフルエンザでも同じような症状が見られるケースは普通にありますし。

2.放っておくと感染爆発が起きて死者が増えてしまう

これも、新型コロナがほかの感染症と異なる威力を持っているという発想から考えられる意見ですが、何も対策しないと感染爆発が起きて、最悪の状態になってしまう。という意見です。

反論としては、集団免疫説に基づくと、日本人の7割以上の人は新型コロナに既感染の状態にあると考えられますし、無症状者を含めるとPCR陽性者よりも莫大な数の人々がもうすでに新型コロナに暴露していると考えられるので、別に感染爆発は起こりえないと言えます。

3.人々が行動を変容させれば感染を押さえられる

人々が行動を変容させれば感染を抑えられるというのは、自粛すれば、感染が抑制されるという考えに基づいているわけです。

しかし、人々が行動を変容させたところで、ウイルスはもうすでにどこにでもあります。もしかするとあなたが今目の前で触っているデバイスに付着しているかもしれませんし、いまあなたが吸った空気にウイルスが紛れていてもおかしくありません。

そう考えると、免疫が下がれば誰でも感染する可能性はあるわけで、ウイルスを押さえ込むという発想よりも自己免疫力を高めて、ウイルスに暴露しても体調を崩さないようにするという心構えの方が正しいと考えられます。

 

4.医療崩壊が起きると死者数が増える

医療崩壊が起きてしまうと、必要な医療行為がなされないわけなので、死者数がどんどん増えて行ってしまうという意見です。

医療崩壊については、五類にすれば解決するという意見が反対意見として考えられます。

結局、どこを出発点に考えるかによって不要派、必要派が別れてしまうので、大前提が異なっている時点で議論の終着点はありませんw

5.感染者の増加のグラフを見れば、感染爆発の予兆だと思われる

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上の画像はグーグルの感染者数のグラフです。

これを見ると、感染者数が急に伸びているので、ここから感染爆発が起きてしまいそうな感じがしますよね。っていう意見です。

 

感染者数(PCR陽性者数)に意味はないので、気にする必要がない。というのが反対意見です。

 

最後に

あなたがどちらの意見であってもかまいませんし、自分で選べば良いだけの話なので、ご自由にドウゾ。

先ほども書きましたが、そもそも不要派必要派というのは出発点が異なっていますので、議論したところで無意味かと思います。

僕は集団免疫という出発点に立って物事を見ているので、緊急事態宣言不要派なだけです。

はい。

いかがでしたでしょうか。

こういう両極端な意見をまとめるのはしんどいですねw。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

追記:この記事で301記事目です。やっと300記事を超えましたw

 

一貫性のないことが人間らしさでもあるっていう寛容さが大事

こんにちは。

おざきです。

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今回は、一貫性がないのが人間らしさでもあるよねっていう話をしていこうと思います。

皆さんには何かに対して一貫性を持っていますか?

僕は一貫性を持てていることってほとんどないなと思います。

 

思想的な部分なんてここ数年でがらりと変わってしまいましたし。

 

生活にも一貫性がないです。

 

趣味趣向にも一貫性がない。

 

僕は本当に一貫性がない人間だと自覚しています。

 

たぶんこのブログでも一貫性のない記事を書いていたりすると思います。

 

まあ、そんなところも人間らしい部分ではあると思うんですよね。

 

最近、中野信子先生のペルソナという本を読んでいるのですが、それをより感じた文章がありました。

 

引用するのは面倒なので、軽く説明すると、

 

日本社会だって、一貫性がないわけですよ。

例えば、世代ごとに価値観が違いますよね。団塊の世代団塊ジュニアしらけ世代ゆとり世代、さとり世代et cetera。

団塊の世代なんかは、戦後の復興で高度成長していて、今日より明日はより豊かになるっていう神話のなかで生きていたわけで、今なんてマイナス成長だなんて言われているわけだから、一貫性もクソもないわけですよ。

 

さらに言うと、この10年でもかなり価値観が変わってきてますよね。スマホが出てきて、若者はTVを見なくなりつつあります。

 

そんな感じで、僕らをとりまく環境自体に一貫性がないのだから、僕らの脳もその一貫性のなさに対応できるように、自然と一貫性をなくしているっていうわけ。

 

みたいなことがペルソナっていう本に載ってたわけですね。

 

こんなこと言われると自己肯定感高まってしまいますね。

 

僕なんかは、自分が何をしたいのかよくわからない。たしかに好きな物はいろいろあるし、それを仕事にできたら良いのだけれど、どれもこれも一貫性のない趣向なので、仕事にできるのか甚だ疑問だったんですよね。

 

一貫性のないこんないろいろなことに手を出して、いろいろできるようにはなりつつあるけれど、一貫性がないということに不安だった。

 

でも、そもそも脳に一貫性ないなら、別に普通なんだ。

そう思えたわけです。

 

なんかしら、成功している人って言うのは、一貫性があるように見えるし、一直線に遠回りしてないような印象を受けてしまうから、人々の意識の中には一貫性がないと成功できないのではないかっていう不安が渦巻いているのかもしれない。

 

意識の世界で言えば、顕在意識、潜在意識、無意識っていう三層構造になっているわけで、無意識っていうのはユングのいう集合的無意識で、これはある集団に共通の無意識なわけだから、結構当てはまる人もいるんじゃあないのかと思っています。

 

さっき引用するのは面倒だって書いたわけだけれど、共有しておきたい文章を発見してしまったので、引用しておきますね。(一貫性ないw)

わたしは存在しない。

これは悲しいことではない。透明な存在であることを嘆く必要はない。だからこそ、来るべき変化に対応することができるからだ。もう変化の時はきている。失われた世代として、透明に生きてきたからこそ、どんな姿にもなることができる。

中野信子著 ペルソナより引用

 

ペルソナ 脳に潜む闇 (講談社現代新書)

ペルソナ 脳に潜む闇 (講談社現代新書)

 

 

良い言葉だと思いませんか?

 

僕も透明人間になる!

 

はい。最後まで読んでいただきありがとうございます。

ではでは。 

 

夜型の人間は暴れるしかない

こんにちは。

おざきです。

これからバイトに行ってくるんですが、最近思うことがありまして、隙間時間に書いております。

 

っていうのも、僕は朝起きれないんですよ。

 

特に冬は。

 

小学生のときから二度寝しかしてなかったし、親に怒鳴られない限り布団から出てこなかった人間なので、根っからの夜型なんですよね。

 

で、最近知ったんですけど、夜型とか朝型とかって遺伝らしいんですよね。

 

え?遺伝なの?ってなって、それは、もう。ご愁傷様ってやつじゃないですか。

 

だから、思ったんです。

 

もう夜型は暴れるしかない。と。

 

世界は朝型です。

 

授業も朝型です。

 

僕は夜型です。

 

なのでもう、暴れるしか選択肢がない。

 

 

っていう。そんなことを思ってしまいました。

 

はい。

 

バイト行ってきますw

年賀状が一枚も来ないことに悲しくなる前時代的人間のおざき

こんにちは。

おざきです。

今日は2021/01/01

つまり元旦です。

 

月並みな表現ですが、新年あけましておめでとうございます。

 

今年も一年なんとか生き延びていきましょう。

 

上のようなくらいの力のいらない目標で今年も大変だろうとは思いますが生きていこうと思います。

 

で、新年早々に悲しいことがあって、それは何かって言うと。

 

タイトルにもある通り、年賀状が一枚も来ていないのです。

 

まだ届いていないだけで、一枚だけ友達から届く予定ですが。

 

本当に、なんかものさみしくなりました。

 

僕はたぶん前時代的人間なのだと思います。

 

なんか年賀状だけでも何年も交換している関係ってなんかいいなって思ってしまうのです。

 

もう中学の友達とも関係がなくなって、高校の友達ともなんもなくて、本当に悲しいなと思います。

 

で、なんで年賀状を書かなくなったのかを考えてみようと思う訳なのですが、

 

 

何でだと思います?

 

 

当たり前ですが、スマホでしょうね。

 

スマホが普及してから、もう友達と住所を交換しなくなった。

 

僕も本当に友達の住所を知らないし、教えてもらおうという意志すらもなくなっています。

 

住所がわからないし、まとまっているものがないから、年賀状を書きたいときに書けない。いちいち住所を聞くためだけにLINEを送るのももはや変だなと思われるご時世です。

 

 

なんだか、冷たい世の中になったなと思います。

 

LINEではいつでもどこでもつながっていられる便利さはあるけれど、画一的でない文字から感じる人間的な部分や、そのほかの年賀状のセンスのようなものも感じられなくなり、人間的な部分がどんどんとそぎ落とされているように感じます。

 

 

だからこそ、めんどくさくても、ちゃんと面と向かって話したり、あえて手書きのメッセージを送ったりすることに付加価値が加わっているようにも思います。

 

 

結局、わざわざ送るほど僕を思ってくれるような人間がほとんどいないのだなと。本当に自意識過剰で痛いなとは思いつつ、そんな風に自己肯定感がだだ下がりしております。

 

はい。

 

そんな感じで年賀状から自己肯定感が下がるおざきでした。